川上量生という男がいる。
ドワンゴの創業者で、現CTOだ。
私はひそかに川上さんのことを慕っている。
けどそれは起業家としての川上さんでなければ、技術者としての川上さんでもない。
あえて言えば思想家としての川上さんだ。
ぼくは彼なりの表現によれば「原住民」だ。
新大陸において西洋人によって絶滅させられたあの原住民のことである。
彼はネットの歴史をこう振り返る。
ネットとは新大陸であり、そこに住む「ネット住民」とは原住民であると。
そしてこれから西洋人、つまり「リア充」がこの新大陸に上陸し始める。それによって新大陸の中で原住民は居場所を失うと。
初めてこの説を聞いたのは、2015年ごろだった。
「鈴木さんにも分かるネットの未来」という本を読んで彼のネット観を知った。
話半分で聞いていた彼の説は、それから数か月もすれば実感の伴う形で理解できるようになり始めた。
あれくらいの時期からYouTuberが台頭しだし、ネラーが「祭り(炎上ではない)」で2chの外に制裁を加えるだけの”軍事力”を失い始め、ネットにリア充が跋扈し始めたのだ。
2016年だか2017年だかには2chで「陰キャ」という言葉が大流行した。もちろん陰キャを攻撃するための言葉としてである。ネットの原住民の総本山が陥落した年だったといってよいかもしれない。
ぼくは川上量生につけられたこの「原住民」という屈辱的な称号と、またその名前が暗示するぼくら原住民たちの行く末に抵抗したい気持ちでいっぱいだった。
しかし、2018年にもなればもはやネットはほぼ完全にリア充に征服されつくした。
原住民たちは5chやニコ動など時代遅れの空間にまるで居留地に隔離されたインディアンの如く詰め込まれたのである。
ぼくがこの記事で書きたいのは川上量生による川上史観への礼賛でなければ、哀愁漂う古き良き時代のネットへの懐古論でもない。
ぼくが語りたいのは未来だ。これからのネット、つまりこの川上史観の続きについて語りたいのだ。
私は今ブロックチェーン技術に魅了されている。そこに将来性を感じている。
それはなぜか。ブロックチェーン技術にはネットを一変させてしまうような力があるからだ。
そもそも、彼らリア充たちは手ぶらでネットに上陸したわけではない。西洋人は「名前」を携えてネットに上陸した。それが彼らの武器だったわけだ。
名前というのは単なる氏名だけを意味するのではない。学歴や職業、あらゆるブランドや知名度、もしくは端正なルックスやリア充な生活模様といった広い意味での「名前」だ。
この「武器」を手に、彼らはネットに降り立った。まるで実際の西洋人が「銃病原菌鉄」を新大陸に持ち込んだかのように。
それによって匿名期のネットは終焉し、匿名期の覇者であった非リア充は急速に力を失い、居留地に追いやられたというわけだ。
ネットの匿名時代は終わり、実名制のSNSなどを通じて、顕名時代が幕を開けた。
川上さんはネットとリアルの接続について語る。
つまり、かつてはリアルと分断された治外法権の聖域のような場所であったネットは、徐々にリアルと接続してリアルと一体化するというビジョンだ。これはかつては旧世界と隔絶していた新大陸が、コロンブスの新大陸発見を契機にして徐々にヨーロッパの延長に位置付けられ「欧米」として一体化するという歴史と似ている。
これに関してぼくは同意する。ぼくもネットの歴史というのは「リアルにあるけどネットにはないもの」を輸入していく歴史だといえると思っていたからである。
「リアルにあるけどネットにないもの」の代表格が「名前」だった。
ネットには人は増えたのに、不自然なまでに名前がなかった。リアルでは当たり前のように存在する名前が存在しないネットにリアルから名前が持ち込まれたということである。
しかしそのように考えるとまだリアルには空気のように存在しているのに、ネットには存在していないものがある。
それは「お金」だ。
ぼくはいま(2018年)は、リアルでは当たり前のように存在する「お金」がネットの世界に輸入される直前の時代のようなものだと認識する。
ネットに地殻変動が起きる前夜が今なのである。
そもそも顕金とはなにか。これはぼくの完全なる造語である。
川上史観では基本的にネットというのは非リア充の時代(匿名時代)と、リア充の時代(顕名時代)の二元論で語られる。
実際の新大陸がそうであったように、ネット史における地殻変動は一度だけであり、匿名時代から顕名時代への移行という一段階の変化でその歴史は固定されるというものだ。
しかし、ぼくはネットの歴史はそれで終わるとは思っていない。
それはどういうことかというと、今は匿名時代が終わった顕名時代であると共に、重ねて言えば匿金時代であるということだ。
ネットではお金が見えない。その人の資産や年収といったものがほとんど可視化されていないし、話題にあがることもそこまでない。
だから匿名制になぞらえてぼくはこのYouTubeやフェイスブック全盛の時代を「匿金時代」と命名した。
匿金時代というからには、その後には顕金時代が潜んでいるということである。
そのパラダイムシフトを引き起こすのがまさにブロックチェーンなのだ。
川上さんはSTEEMITというサービスをご存じだろうか?
これはブロックチェーン技術をアプリケーションに応用したサービス、つまりDAPPSだ。
結論から言おう。なにがこのサービスのすごいところか。
それはすべてのアカウントの資産が公開されているということである。
まるで、ツイッターでフォロワー数が公開されているように、それぞれのアカウントではウォレットに収められた資産の量が平然と公開されている。
それは、STEEMITの奇抜で独創的なアイデアかというとそうではなく、DAPPSの宿命でもある。ブロックチェーン技術を応用した場合、そもそもその人のブロックチェーン上の保有資産を技術的に隠すことはできない。
だからSTEEMITでも当たり前のように、そのアカウントの資産が公開情報として掲載されている。
ぼくは初めてツイッターを触った時、フォロワーが公開されている仕様を見て何か危機感というか世の中が変わってしまうような感覚を覚えた。
それと全く同じような革命的なシステムをぼくはSTEEMITの中に見た。
資産が公開されるというのは単に金持ちが自分の資産を自慢できるとか、ユーザーが公開情報に引っ張られて資産を意識しだすとかそういう話をしているのではない。
その人の持つ資産を明確に正確にシステムとして把握することができるのが大きい。
STEEMITでは、定期的にインフレするSTEEMの余剰分が、BTCにおいてマイナーに支払われる報酬のように、記事の投稿者に支払われる。
しかし、その報酬の配当比率は、ほかのユーザーによる投票によって決まる。
その投票は民主的な投票ではない。先述した公開されているそれぞれのアカウントの資産に応じた投票力をそれぞれのアカウントが持つことになる。
つまり、大勢の貧乏人に投票されるよりも一部の金持ちに投票されたほうが多くの報酬を得られるシステムになっている。
これは革命的なシステムだ。
VALUだとかタイムバンクだとか、ぼくは個人的に2017年を通じて「多くの大衆に支持されるよりも一部の金持ちに支持されたほうが得をする機運」を肌感覚で感じてきた。
STEEMITはその真骨頂のようなサービスだった。STEEMIT自体がスケールするかは分からないが、少なくとも新しい時代を告げる鐘の音のような機能は果たしてくれたと思う。
人々はマジョリティのためではなく、一部の金持ちのためにコンテンツを作りだす時代が始まったのである。
ぼくはこれからはブロックチェーンという技術が破壊的なまでにリア充の時代である顕名時代を終わらせ、強引に顕金時代を創設すると考えている。
これからのネットを生きる上での市民権は資本だ。
評価経済の時代は終わる。正確に言えば評価経済を司る評価軸が変わるといったほうが正しいだろうか。多くの大衆に好かれたところでなんの意味もない。岡崎体育やはあちゅうなど情報感度が高いインフルエンサーがその先駆けだ。彼らは積極的に金のない、もしくは金を使わないファンを切り捨て始めている。
全てのコンテンツが金持ちのために作られ始める。
テレビにせよ、ツイッターにせよ、YouTubeにせよ、ああいうサービスはすべて「民主的」なメディアだ。
クリエイターはマジョリティのことを考えながらコンテンツを作る。
ディレクターは視聴率を考えながら、ツイッタラーはRT数やフォロワー数を考えながら、ユーチューバーは再生回数やチャンネル登録者数を考えながらコンテンツを作る。
マジョリティに属してさえいれば安心できた時代。マイノリティだけがそのための生贄にされた時代。それが民主的なシステムに基づいたメディアに支配された時代だ。
けど、これからは違う。これからの顕金時代、コンテンツを作る人々は視聴率やRT数や再生回数のことは考えない。
いかに資本に好かれるか、それを考える。
企業の決算書がそうであるように、最小単位が「人」から「お金」に変わるのだ。
何人に好かれたかではなく何円で支持されたかで評価が決まる時代だ。
企業の上司は企業の範囲内でしか労働者への人事権を持たないが、この顕金時代の資本家の資本はあらゆる場面でプラットフォームの参加者への人事権を握り続ける。
ぼくはブロックチェーンが世界に与えるインパクトをひとことでこう表現したいと思う。
これがブロックチェーン及びDAPPSが世界に与える本当の意味でのインパクトだ。
テレビは技術的に視聴者の資産や収入を割り出すことができなかった。
そのYouTubeやTwitterも推測以上のユーザーの資産は分からなった。
だからテレビマンやツイッタラーやユーチューバーは大衆に奉仕することを生きがいにせざるを得なかったのだ。
けど、DAPPSでは明確にその人のブロックチェーン上の資産が判明する。
ソシャゲのように企業に貢いだ金が分かるのではなく、未使用のその人が本質的に所有する資産が分かるのだ。
その結果、金持ちは安心してDAPPSに資産を預けられる。なぜならブロックチェーンで構築されたDAPPSのセキュリティは、銀行の預金口座に預けるよりも堅牢なセキュリティで守られているからだ。
しかも、誰にも見てもらえない預金口座とは違ってDAPPS上では資産額が公開され、なおかつそれが強い影響力、もしくは人事権を発揮するのだ。
資本家の何十億、何百億という蓄えられた使われない大金が、デッドマネーではなく、生きたお金として機能し始めるのだ。
この変化、つまり経済格差が文化に反映され始めるという変化は非常に大きな意味を持っている。
民主制(一君万民)から共和制への移行。これがこれからの時代を説明するトレンドだ。
つまり管理者は存在するが平等だった時代(あるアカウントによる高評価があるアカウントによる高評価よりも強い意味を持つなんてことはなかった)から、「王はいないが平等ではない」時代へと変わりつつある。
これについてはまた別に長々と記事にしたいと思っている。
とにかく21世紀に「大衆のスター」は消え去るということだ。
そもそも歴史を振り返って大衆のスターなるものが存在する時代のほうが少なかった。
エンターテイナーというのはほとんどの時代において、大衆からあこがれる存在ではなく、王侯貴族に奉仕する存在だったのだ。
20世紀より前、女の子は「みんなのアイドル」になりたかったのではなく楊貴妃やクレオパトラのような皇帝や将軍の寵姫になりたがっていたのだ。
同じく、20世紀より前、ヒトラーのような独裁者は存在せず、いるのは専制君主だった(ヒトラーはドイツ人に逆らえない、独裁者は侵略者にはなれても圧政者にはなれないのだ)。
こういった構造が崩壊し、中世のような経済格差が文化に反映されていた時代に回帰するだろう。
この分断線、つまり民主制と共和制という二つのパラダイムの分断線はネット以前とネット以後という部分にではなく、ブロックチェーン以前とブロックチェーン以後という部分に引かれる。
YouTubeとテレビは本質的に同じものだ。人気ユーチューバーはどこかテレビの芸能人に似ているし、そのコンテンツも昔のテレビと似ている。
それはYouTubeとテレビが通信と電波という違いはあれど、まったく同じ民主的な評価制度に晒されながら存在しているからだ。
だからここには連続性がある。
けどブロックチェーン以後はそこが変わる。もちろんネット以前(=テレビ)とネット以後のメディアにも違いはあったが、それと同じかそれ以上の変化がブロックチェーン以前と以後とには起こる。
ブロックチェーン以前と以後とを見比べたら、同じブロックチェーン以前に属するテレビもYouTubeもさして変わらないということに気づくはずだ。
そんな変革期に今は立たされている。それを行う主体がSTEEMITなのか、それともここALISなのか、もしくはなにか別の新しいサービスなのかは分からない。
しかし匿金時代から顕金時代への移行という地殻変動は間違いなくブロックチェーン技術によって引き起こされる。
ネット文化を根底から覆すような地殻変動は、現実世界の新大陸とは違って一度だけでは終わらないのだ。
一般的には誤解されているかもしれないが、インディアンたちは決して「原」住民ではなかった。
彼らもアジアから旅立って新大陸を「発見」した冒険者たちだったのだ。
冒険者たちが、もはや冒険は終わったと安心しきっていたころ、新たな冒険者であるコロンブスにその存在を「発見」されたのである。インディアンたちは最初から新大陸で生まれたのではないのだ。
それは当然ネット上の歴史においても同じことが言える。インターネットで生まれた人間なんていない。
もうすぐ二人目のコロンブスが、彼らにとっての新大陸と彼らにとっての原住民を「発見」する頃だ。
ブロックチェーンという船に乗って、資本という病原菌を携えて新大陸に上陸しようとしている。
マジョリティに属してさえいればよかった時代は終わる。これからは「金がものをいう(これはSTEEMITのキャッチコピーだ)」時代が到来する。
ぼくもそれに備えようとおもう。
節穴。