相模原障害者殺傷事件に関して、一審の横浜地裁は死刑を言い渡しました。19人を殺害し、26人を負傷させたことを考えると、死刑は昨今の量刑相場から考えても妥当でしょう。判決要旨はこちらの記事にあります。判決の妥当性に関しては詳しく述べません。この記事では、当事件の特殊性と、それに基づいた「生きる価値がある命とは何か」について述べます。
先に私のことを話しておきます。私は障害当事者(双極性障害)で、障害者手帳(2級)を保持しています。職場で障害を理由とした差別を受けたことが一度だけあり、それ以外は特に変わりなく生きてこられたので、精神障害者の中では幸運な方かもしれません。親族には身体障害者と知的障害者がおり、精神・身体・知的という全てのジャンルの障害者と接したことがあります。親族は知的障害者更生施設の運営にも携わっています(今回の事件も知的障害者更生施設で起きました)。
障害の種類や態様は多岐にわたるので、全てを理解しているとは到底言えませんが、以上の経歴により一般の方々よりは良く理解していると考えています。
さて、今回の事件ですが、「死刑は当然だけど、必ずしも犯人を即座に全否定できない」というような、「慎重な支持者」が意外に多いというのが他の事件と異なり特殊です。ここは実際の発言を見てもらったほうが良いと思いますので、以下にTwitterでの投稿を掲載します。
上記はいずれもTwitter検索における「話題のツイート」の上位から抽出したもので、意見の全てでもないし、多数意見であることも意味していません。各自、他の意見も調べてみることをお勧めします。
さて、よく指摘されている点は以下の2つです。
1. 死刑判決は、「重度知的障害者は死ぬべき」を「凶悪犯罪者は死ぬべき」に置き換えただけであり、それは結果として被告人の「生きる価値のある命とそうでない命がある」という主張を肯定することになるのではないだろうか
2. 重度知的障害者は犯罪をしても裁かれず、また事件の被害者となっても匿名として扱われるということは、彼らが人ではないということを意味しているのではないだろうか
3. 重度知的障害者の世話をするのは、多くの社会的コストがかかり、精神的にも負担が大きく、生産的とは言えない。「重度知的障害者でも生きる権利はある」とするのは、予算や現場の現実を無視した綺麗事にすぎない。
以下、順番にこれらについて述べます。
1. 死刑判決は、「重度知的障害者は死ぬべき」を「凶悪犯罪者は死ぬべき」に置き換えただけであり、それは結果として被告人の「生きる価値のある命とそうでない命がある」という主張を肯定することになるのではないだろうか
私は死刑に反対しています。「生きる価値のある命とそうでない命がある」という主張に賛同できないからです。被告人が主張してようがいまいが、死刑には反対です。「重度知的障害者には生きる権利はある、しかし凶悪犯罪者にはない」という基準には、例えば「重度知的障害者には悪気がないが、凶悪犯罪者にはある」等の理由付けをすることは可能です。しかしそれは、「悪気」とはなにかの定義が必要であり、結局その「悪気」という基準で「生きる価値のある命とそうでない命」を区別していることになります。死刑を肯定する限り、何かしらの基準で「生きる価値のある命とそうでない命」の区別は避けられません。そうなると、死刑に反対する方が、理論的に整合しています。従って、1に対しての私なりの回答は、「その通りなので、死刑は廃止すべき」となります。
2. 重度知的障害者は犯罪をしても裁かれず、また事件の被害者となっても匿名として扱われるということは、彼らが人ではないということを意味しているのではないだろうか
重度知的障害者の中には、生活の全てに介助が必要で、暴れまわって糞尿を撒き散らし、死ぬまで症状が改善することのない方もいます(全ての方がそうであると言うわけでは有りません)。そのような方を見た際に、「彼らは人ではない」と主張する人々が出てくることは、容易に想像可能です。
だからといって安易に「人でない」認定はできません。重度知的障害者が犯罪をして裁かれない(こともある)のは、ほとんどの場合において「責任能力がないから」であり、これは「人ではない」とイコールではありません。重度知的障害者以外でも、これらの責任無能力状態に陥ることがあります。
それに、もし「犯罪をして裁かれないなら人ではない」のであれば、14歳未満の子どもも人ではないということになります(刑事未成年で不可罰)。「子どもはいずれ成長して大人になると裁かれるから違う」という反論があるでしょう。では、重度知的障害者の治療法が将来確立したら、その時点で重度知的障害者は人となるのでしょうか。そうなると「重度知的障害者が人であるかどうかは、医療技術の水準で決まる」ということになります。
また、重度知的障害者は後天的になることもあるので、仮に大事故で脳を損傷し重度知的障害者となった場合や、老齢による衰えにより重度知的障害者と同様の状況になった場合、その方のこれまでの人生如何に関わらず、その方は人ではなくなるのでしょうか。
以上の指摘からわかる通り、「重度知的障害者は人ではない」認定は、乱暴で粗雑な理論です。
被害者を匿名で扱う点についてですが、メディアによる被害者や遺族等のプライバシー等の人権侵害を防ぐ目的もありますので(私は京都アニメーション事件の全員の被害者名を、遺族全員の同意を取ること無く公表した警察とマスコミを強く批判しています)、重度障害者だけが匿名にされ、また匿名であるべきというわけでもありません。従ってこれはそもそも前提として間違っています(ただし、私は恣意的に氏名の発表・不発表を決めている警察の態度は差別的であり、人権侵害だと考えています)。
以上より、2は単純に妥当性を欠きます。
3. 重度知的障害者の世話をするのは、多くの社会的コストがかかり、精神的にも負担が大きく、生産的とは言えない。「重度知的障害者でも生きる権利はある」とするのは、予算や現場の現実を無視した綺麗事にすぎない。
重度知的障害者は基本的に生産活動が難しく、できたとしても世話をするコストの方が大きいのが普通なので、「赤字」となるのは確かです。また、先述の通り、重度知的障害は基本的に改善することがありません。見た目は大人で、精神年齢は2-3歳程度の人の世話をずっとし続けるというのは、精神的に辛いと感じる人が多いのも間違いではないでしょう。そもそも障害者施設が存在するのは、「経済的・精神的に家族で世話をし続けることができない」からです。ここはごまかしてはいけない点です。
この点に関して、私はインターネットで見かけた以下の文章が良い反論になると考えます。
貧しい人、病人、非生産的な人、いてあたりまえだ。私たちは他者から生産的であると認められたときだけ生きる権利があるというのか。非生産的な市民を殺してもいいという原則ができ、実行されるならば、我々が老いて弱ったとき、我々も殺されるだろう。
この言葉は、クレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン(以下「ガーレン」)が述べたと言われていますが、原文は見つけられませんでした。彼の発言をNazi euthanasia and the Catholic Church や Clemens August Graf von Galen で調べましたが、「曖昧な理由で人を殺すことは十戒の『汝、殺すなかれ』に反する」としており、別に障害者に限定しておらず、「非生産的かどうか」にも限定していません("unproductive people" という表現はあるので、重視はしています)。ガーレンは聖職者なので、キリスト教の理念に従った批判を終始行っています。以上より、上記自体は日本人に受け入れられやすいように作られた創作だと判断しました(ドイツ語は読めないので、もし間違いでしたらドイツ語原文を教えて頂けると幸いです)。
先述の責任能力の話と同様、生産性を基準にすると、子どもや老人、大事故にあった人等も「生産的ではない」と判断できてしまいます。老いて重度知的障害者の同じ段階になった時点で「生きる権利がない」とされ、強制的に安楽死させられる世の中が果たして妥当と言えるでしょうか。
また、強制的安楽死制度が妥当に運用され続けるのかについても甚だ疑問です。実際に、ナチスのT4作戦においては、最初は「不治の患者」に限られていましたが、精神病者、遺伝病者、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者などに対象を拡大していきます。我々が同じ過ちを侵さないと、どういう根拠で言えるのでしょうか。
近年においても、政府はらい予防法違憲国家賠償訴訟で根拠のない差別をしたと認定されました(なお、らい病患者は旧優生保護法の断種対象にもなっており、これは科学的に完全に誤った知見に基づいています。らい病は遺伝するものではないからです)。今はコロナウイルスが原因で、様々な根拠のない、もしくは憶測に基づく差別が起こっています。たった0.1ミクロン程度の物質で正常な判断ができなくなるような人々が、「生きる価値のある命とそうでない命」の妥当な判断基準を作り、またその妥当性を保ち続けることができるのでしょうか?
税金で重度知的障害者の世話をするのは、当の重度知的障害者たちだけの為ではありません。我々や我々の友人や親族が老いたり、事故にあって同様の状態になったときに他者によって殺害されない為、そして強制的安楽死の範囲の拡大により、自分の生きる権利を奪われない為です。「もし○○という状況になったら殺してほしい」という人もいるでしょうが(私も重度知的障害者や、ひどい認知障害を負ったら安楽死したいです)、それはその人が主体的に選択すべきことで、他者が強制することではありません。
私は、「生きる価値がある命」も「生きる価値がない命」も、その基準どころか、存在するかどうかすらもわからないし、決めようとする行為も妥当ではないと考えます。ある重度知的障害者がいたときに、その人に生きる価値があるかを聞かれても、「わからない」と答えます。これまでの議論でわかる通り、その問いは私どころか、人類の手に余るものだからです。
従って、私はこう答えます。
「わからないけど、私は自分の生き死にを自分で決めたいし、私の家族や友人もそうあってほしいので、彼らの生きる権利を保証する制度を支持します」