さっきテレビを見ていたら、台湾のお寺(廟)を取り上げていました。
台湾北部の新北市にある金山財神廟というお寺です。
番組でも紹介されていましたが、このお寺、現金を(貸して)くれるんですね。
お寺の公式サイトにある説明によれば、占いの結果によって100台湾元、200台湾元、300台湾元が実際に貸し出されます。
で、ここでお金を借りた人はほぼ全員、一年後に利子をつけて返しにくるそうなんです。
なんでも、ここでお金を借りると財運が上がるということで、お金を借りにくる人も返しにくる人もひっきりなし。
そんな形で経済活動が成り立っているんですね。
このお寺での経済活動、形としては…
・神様がお金を渡す
・神様からお金をもらう
・神様にお金を返す
という3つの要素で成り立っています。
神様からの贈与で回る経済…
これを見て、「あぁ」と、贈与交換の図式を思い出しました。
「贈与論」は哲学や文化人類学のオーソドックスなトピックなので、イチからいろいろ書いていくとキリがないのですが、僕の理解している範囲で、上のお寺での経済活動に即して書くと…
・贈与する義務
・受け取る義務
・返す義務
こうした3つの義務を人々が感じて、義務を果たし続けることによって経済が回っていくという考え方なんですね。
そして、この贈与交換において大切なポイントなのが、まず…
・贈与交換によって人と人との関係が構築されて、維持される
ということです。
これは、人々が常に贈与→受領→返礼というプロセスをグルグルと回すことによって、人と人とのあいだにそのプロセスを共有しているという関係性が作られて、そこに一種のコミュニティが生まれるという考え方なんですね。
つまり、いわゆるコミュニティというのは贈与交換という運動が継続することによって作られ、維持されるということになります。
で、贈与交換という運動が継続するためには、その運動を駆動する力が必要になるわけですが、その力というのは…
・贈与交換における贈与と返礼は、等価ではない
ということによって生み出されているそうです。
これがまた贈与交換とコミュニティを結びつけている大事なポイントなのですが、こうした考え方は文化人類学の知見に拠っています。
…ですが、そこに立ち入るとややこしいので、これまた冒頭のお寺の例を基に説明してみます。
上に挙げた台湾のお寺で神様からお金を借りた人は、一年後にお金を返しにやってきます。
そのときに、ほとんどの人が神様から借りた金額をそのまま返すのではなく、利子をつけて多めに返すそうです。
「利子をつける」というとビジネスっぽくなってしまいますが、ここでポイントになるのは、「神様からお金を借りた人は、借りた金額よりも多く返さないと気が済まない」ということです。
この「気が済まない」というのが、贈与交換のプロセスを生み出す力になるんですね。
こういう「気が済まない」という気持ちのことを「負債感」といいます。
「借りたものをそのまま返すのではなく多めに返す」というのは、この負債感を解消するための方法なんですね。
そして、これは単なる金額的な話だけではなく、いわば「借りたものを形を変えて返す」ということでもあります。
また、この負債感を解消する方法は、必ずしも借りたものを借りた先にそのまま返すのではなく、借りた先とは違うどこか・違う誰かでもいいんです。
つまり、「誰かから何かを借りた・誰かから何かを受け取った」という負債感を解消するためには、とにかく自分の手元から早く離す、どこかに渡すということが必要になってくるということなんですね。
そうした負債感と義務感によって、モノが人々のあいだをグルグル回ることで関係性が生まれ、コミュニティが作られるという考え方が贈与交換なんだなと僕は理解しています。
ここまでの話を少しまとめると…
・贈与交換は等価ではない
・等価ではないところに負債感が生まれる
・負債感を解消しようとする義務感が関係性を作り出す
というようなことになるでしょうか。
贈与交換をこのように捉えたときに、その対立概念としての等価交換について考えずにはいられません。
贈与交換の考え方をひっくり返して等価交換というものを捉えてみると、等価交換とはいわば、「与えたものと返ってくるものが等価である」「受け取ったものと等価のものを必ず返す」ということですね。
貨幣を介したモノの売買は等価交換の最たるものだと言われるようです。
100円出せば100円の価値のモノが、1万円出せば1万円の価値のモノが必ず手に入る。
これがいわゆる経済活動の基本ですね。
ということは、贈与交換の対立概念としての等価交換は…
・負債感は生じないので、義務感も生まれない
ということになるはずです。
つまり、1万円の価値があるモノを欲しいと思えば、1万円を払えば必ず手に入るわけで、そこでモノの交換は完結しています。
お金を払う・モノを受け取るということで交換は完結しているので、ここには負債感も義務感もありません。
とすると…
・等価交換のもとでは関係性は構築されない・持続されない
ということになります。
負債感からくる義務感が人と人との関係性、いわゆるコミュニティを構築し、維持する駆動力になっているという贈与交換の考え方からすれば、等価交換はその駆動力を欠いているということになります。
というところまで話を進めてきたところで、ようやくトークンエコノミーの話になります。
トークンエコノミーを「トークンを介して作られる経済圏」だとすると、それはいわゆる、これまでの貨幣経済のもとでは価値の付かなかったモノやコト・行為に対して、トークンを通じて価値をつけることによって人々の行動にインセンティブを与え、たくさんの人が集まる場=コミュニティを作ろうという考え方だと言えるでしょうか。
単純化しすぎかもしれませんが、ALISが掲げる「信頼の可視化」のように。
でも、ここで、ふと思うんです。
あるモノやコトに対して本当に公平で等価な価値が付けられてしまう世界に、経済圏・コミュニティは生まれるのか?
ということを。
ここまで書いてきたように、等価交換はコミュニティを構築する駆動力を欠いていると思うのです。
むしろ、等価交換ではない、贈与交換に見られる贈与・受領・返礼における非等価性・非対称性こそが、関係性を構築する力になるのではないか?
そうだとすれば、公平・公正な価値の付与と経済圏・公共圏・コミュニティの構築とは、相矛盾するのではないか?
ALISで言えば、「信頼の可視化」を目指すこととコミュニティを構築することとは矛盾するのではないか?
クローズドβ版からオープンβ版までのプロセスでは、未だ等価な価値が与えられていないからこそ、コミュニティが一定程度形成され、維持されているのではないか?
と、疑問ばかりが湧いてきますが、その解決方法はまだ思い浮かびません。
とはいえ、個人的には「トークンによるインセンティブ」や「等価な価値」ということに、さほど魅力を感じないというのがなぜなのかという問いについて、この贈与交換と等価交換の考え方がヒントを与えてくれるのではないかと感じています。
まあ、「ALISで記事を書いてトークンをもらっているお前が言うな!」と怒られるかもしれませんが…💦
とはいえ、なんとなくこのあたりは、「トークンエコノミー」を考えるためのポイントになりそうなので、これからも考えていきたいと思います。