(香港の友人に買ってもらった紅豆糕。モチモチしていてクセになります)
今回はどんな記事を書こうかな…と思いながらTwitterを眺めていたところ、mahsonoさんが僕の前回書いたALISの記事をコメント付きでリツイートしてくださっていました。
このコメントに奥悉太さんが香港ドルのカレンシーボード制についてコメントしてくださり、少しやり取りをした後、mahsonoさんから興味深いコメントをいただきました。
「レクチャー」には程遠いですが、このコメントを拝見して、香港の経済的な立ち位置を理解するためには、「香港」という都市やそこに住む人々の歴史的な動きを頭に入れておく必要があるよなぁ…と再認識しました。
そこで思い浮かんだのが、「香港は“decentralized”な都市なんじゃないのかな…」という、「妄想」ともいえないようなイメージでした。
ALISで記事を書くために無理やり言っている…わけではないんですけれど、いったい何故そんなことを思ったのか、文字通り「閑話休題」として書き留めてみたいと思います。
・香港は中央集権を経験したことがない!?
・「上有政策,下有対策」という関係性
・「帝国」のはざまで…
アジアの金融センターとして香港とよく比較されるのがシンガポールです。
どちらもイギリスの植民地統治のもとで中継貿易の拠点として発展し、戦後、特に1970年代以降は自由な経済システムのなかで、世界中からいわゆる「ヒト・モノ・カネ」が集まる場所として発展してきたという共通性を有しています。
ただ、両者には決定的に違う部分があります。
それは、シンガポールが1965年にマレーシアから分離する形で独立し、中央集権的な都市国家を形成してきたのに対し、
香港は1997年の「中国返還」後は「一国二制度」のもとで「高度な自治」が認められてはいるものの、イギリスの植民地時代も含めて、あくまで国家のなかにある特殊な都市のひとつとして発展を続けてきた、ということです。
近代以降、香港は独立した国家だった経験がありません。
では、たとえばイギリスの植民地統治を受けていた時代には、中央集権的な政治システムのもとで効率的に統治されていたのかというと、決してそういうわけでもなかったようです。
それは、イギリスの植民地統治の特徴である「間接統治」のもとで、法制度や経済活動などにおいて、在地の従来の慣習が尊重(あるいは黙認・放任)されるような統治形態がかかわっています。
たとえば、香港の教育や医療を担っていたのは公的機関ではなく、中国人(華人)が設立した慈善団体や、もしくは欧米人宣教師が開設したキリスト教会などが運営主体となって、こうした公共施設を運営していました。
もちろん、経済活動についても同様であり、その象徴的な存在のひとつが、mahsonoさんが挙げてくださっていた「銀号」なんですね。
19世紀当時、香港には対大陸貿易を展開する欧米企業の中継地としての役割を果たしていましたが、大陸側の窓口であった広州で欧米企業が商売をおこなうためには、欧米企業がもっていた「ドル」と広州で流通していた貨幣との交換が必要不可欠でした。
そのあいだに立ったのが貨幣の交換を担う在地の金融機関としての「銀号」であり、そのプロセスの中で生まれたのが、香港内で流通する貨幣としての「香港ドル」だったということです。
民間の必要に応じて生まれた香港ドルですから、その発行も民間が担うことになりました。
1895年には香港上海銀行(HSBC)とチャータード銀行が紙幣発行権を持つことになり、いわゆる「中央銀行」ではない場所で香港ドルは発行されるようになっていきます。
香港ドルは、そもそも、政府が中央主権的に生み出したのではなく、「decentralized」な経済活動の必要に応じて生まれ、その発行・管理も「decentralized」な形で進められたという経緯があるんですね。
中国の政府と民間との関係性を説明するときによく言われる「上有政策,下有対策(上に政策あり、下に対策あり)」を、香港の人々は地で行きながら香港社会を形成してきたように感じます。
戦後の香港はイギリスの委任統治のもと、1970年代までは九龍半島を中心に製造業の一大拠点として発展していきましたが、
中国大陸で「改革開放」政策が始まる前後には、製造業は更なる奥地の「新界(New Territory)」から、境界を越えて広州へと北上していき、香港の中心には金融業が展開されるようになっていきます。
(現在の香港島の「中環(Central)」は、まさに金融の中心となっています)
その役割は、海外企業が中国大陸へと進出していく窓口になるとともに、中国が海外へと事業展開していくための窓口になっていくというものでした。
中国企業の多くは近年まで、香港の株式市場に上場することによって、初めて「マーケット」に自らをさらして評価を受ける形での事業展開を経験していました。
また、このときに、「銀号」がドルと広州の貨幣との橋渡しを果たしたように、香港の金融業は外貨と人民元との橋渡しという役割を担っていました。
政府が香港に役割を与えたというのではなく、香港に住む人々や香港に集まる人々がそれぞれに動くことによって、香港という都市がそうした役割を持つようになっていった、と言えるかと思います。
久末亮一さんが香港のことを「「帝国の時代」のゲートウェイ」と名付けたのは、欧米諸国と中国という「帝国」の、まさに窓口であり続けたことを表現しています。
ただ、そうした役割も1980年代以降の広州・深圳の経済発展と1997年の「香港返還」を契機として、少しずつ変化していきます。
人民元との関係でいえば、中国の経済発展によって人民元の国際的な地位が向上していくと同時に、人民元のオフショアセンターとして香港が位置づけられていくなかで、香港ドルや香港が従来果たしてきた「中継」としての役割の重要性が減じられていったように感じます。
また、戦後、香港が製造業から金融業へと都市の役割を変化させていったことをなぞるように、深圳や上海が金融センターとしての役割を担うようになり、中国と外国がストレートにつながるようになっていきました。
そうしたなかで、香港は「次の役割」を生み出すことができるでしょうか?
そのひとつの方向性として注目されるのは、中国政府が進める「一帯一路」経済圏への参画や、広東省と香港・マカオをひとつの経済圏として統合していく「粤港澳大湾区都市群発展計画」といった、中国政府の「政策」に対する「対応」がどのように展開するかというところだと思います。
「一帯一路」経済圏を視野に入れた香港の動向として、僕もブロックチェーンアクセラレーターの動きを取りあげました。
たとえばこの取り組みには、グローバルな経済圏へのアプローチが打ち出されるとともに、香港という都市の発展ということが前面に掲げられています。
香港はこれまで、イギリスや中国といった大きな「帝国」のはざまに置かれながら、そのもとで活発に香港に住む人々・香港に出入りする人々が社会を構成してきました。
香港の人々の「decentralized」な動きを政府が後追いするような形で環境整備がされるのであれば、香港の都市としての魅力はまだまだ健在だと思いますが、万一、政府が主導する形で香港の産業が再整備されていくのであれば…
中国はブロックチェーンを積極的に推進する姿勢を見せています。
そうした動きが世界のブロックチェーンをめぐる動きに大きな影響を与えていくことは間違いないと思いますし、中国のそのような姿勢は重要だと思います。
同時に、香港のブロックチェーンをめぐる動きは中国の動向とはまた違う方向で展開していくのではないかと思っています。
それは、香港社会が「decentralized」に都市を形成してきたからこそありうる方向性だと思いますし、それが中国本土の動きと見分けがつかなくなった時には、香港に注目する意味も必然的になくなっていくだろうと思います。
…「decentralized」という言葉を使ってムリヤリ書いた感は否めませんが、自分の勉強という意味も込めてのアウトプットということでまとめてみました。
僕の記事は台湾・香港・中国で展開されているブロックチェーン・仮想通貨に関する個別の動きを取りあげています。
そうした姿勢を保ちつつ、それぞれの動きがどのように繋がっているのか/繋がっていないのかということを意識しながら、これからもコツコツ記事を書いていきたいと思います!
・久末亮一『香港 「帝国の時代」のゲートウェイ』(名古屋大学出版会、2012年)
・沢田ゆかり編『植民地香港の構造変化』(アジア経済研究所、1997年)
・倉田徹「返還20周年、新長官の就任と新たな政治課題:2017年の香港特別行政区」(『アジア動向年報』、2018年)
・吉川雅之・倉田徹編『香港を知るための60章』(明石書店、2016年)
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