今日こそは奴に風呂に入ってもらう。奴ときたら、もう三ヶ月も風呂に入っていないのである。お陰でリビングは奴の体臭が充満している。奴は私の気持ちなど気にも留めずに、リビングのグリーンのカーペットの上でうたた寝をしていた。私は固い決意を胸に、奴を睨み付けて言い放った。
「風連。お風呂だよ、お風呂!」
奴は耳をピクリと動かすとのっそり起き上がり、まるで何も聞こえなかったかの様にゆっくりとした足取りでリビングを出て行った。行く先は分かっている。そっと後をたどると、何時もは決して入ろうとしない犬小屋の奥に奴は居た。
そう、奴は我が家の柴犬、風連である。奴は筋金入りの風呂嫌いだ。大体において柴犬とは風呂嫌いであるらしい。濡れるのが嫌だとか何とか。だが何時までも奴に譲歩している訳にも行くまい。
犬小屋は物置小屋の隣にある。私は物置小屋に行き、奴専用の金ダライを取ってゴロゴロと転がしながら庭まで運ぶ。その音を聞いて、奴の心臓がバクバクし始めた。風呂場の蛇口に庭まで届く長いホースを着けて、タライにお湯を張る。奴の鼓動は益々速くなる。
タライにお湯が一杯になったところで、緊張で硬直している奴を犬小屋から無理やり引きずり出し、抱き抱えた。渾身の力で暴れる奴を何とか押さえつけ、ドボン、とタライの中へ放り込む。奴は恐怖で凍りつく。隙を与えないように、間髪入れずにホースでお湯をかける。全身濡れ鼠になったところで、奴はどんよりと戦意を失った。
私は犬用シャンプーを手に取り、奴の首から背中に向けてシャンプーを塗りたくった。
「フィーン、フィーン」
と、奴は哀れっぽい声で訴えたが、聞いてはいけない。容赦なく両手でごしごしと毛皮の奥までシャンプーが届くように揉み込む。尻尾まで丹念に泡立て、腹に手を回してリズミカルに洗う。脚を交互に持ち上げて洗ったら、濯ぎである。
ホースでゆっくりとお湯をかけると、奴は満更でも無さそうな顔で低く呻いた。見ると、明らかに気持ち良さそうである。そうだろう? お風呂って気持ちの良いものなんだぜ。何故学習しないんだ? ここまで来れば後もう少し、そう思って私は油断した。
片手にホースを持ち、もう片方の手で濯いでいたが、その手をうっかり放してしまったのだ。奴はこの隙を見逃さなかった。ダッと弾丸のようにタライから飛び出して、庭をすり抜けご近所中を走り回った。
私は慌てて後を追ったが、脱兎の如く走り回る犬に人間が追い付けるはずもなく、結局奴が走り疲れて一息つくまで呆然と立ち尽くすことになった。ようやく奴の息も切れ、向かいの公園を彷徨いているところを捕まえて、再びタライに戻して仕上げをした。
「よし。終わったよ。ブルブルしな」
私が促すまでもなく、本能に従って奴はブルブルと身体を震わせて水分を弾き飛ばす。そしてリビングの前のガラス戸の前まで行き、ビシッとお座りをキメて、ご褒美の牛乳を催促することを忘れない。
「分かっているって。待ってなさい」
私はキッチンへ行き、牛乳を取り出して容器に入れ、奴の所まで持って行く。物凄い勢いでむせながら牛乳を飲み干すと、奴は庭へ行き、身体中を地面に擦り付けて、折角綺麗になった毛皮を汚すのである。
何だかどっと力が抜けるが、まあ一応風呂には入れた。