
本稿では、

──身体性・評価軸・参入可能性の再検討──
本稿は、VTuber(Virtual YouTuber)文化が既存のエンターテインメントにおける「見た目による選別(外見による選別)」をどのように変化させうるかを検討する。まずVTuberの表象構造を整理し、視聴者評価が「身体的属性」から「作品性・表現性」へ相対化されるメカニズムを理論的に提示する。次に、その変化が参入可能性・多様性・産業構造に与える影響と、資本・会社組織・中の人の可視性といった限界について論じる。結論として、VTuberは見た目による選別を完全に消去するのではなく、それを「相対化」し、新たな評価軸を生み出す文化的契機であると位置づける。
1. はじめに(Introduction)
外見は長らく芸能・創作分野の重要な選別基準であった。容姿・年齢・性別は出演機会や露出、受容のされ方に影響を与え、しばしば才能や努力とは独立した構造的な不均衡を生んできた。本稿は、近年急速に普及したVTuberというフォーマットが、そうした「見た目による選別」をどの程度弱め、あるいは再編する可能性を有するかを問う。
論の出発点は二つである。第一に、VTuberはアバター(視覚的表象)を介在させることで視聴者が観察する「外見情報」を設計可能にし、従来の「実在の身体」による即時評価を遮断することができる点。第二に、VTuber活動は企画・演出・声・継続性といった“作業的資本”をより前面化する傾向があるという点である。本稿はこれらを理論的に整理し、期待される社会的影響と限界を検討する。
(本稿は概念的論考を基礎とするため、該当分野の主要テーマを参照する)
身体や外見が、文化的評価の形成に深く関与していることは多くの研究で指摘されてきた。
Butler(1990)は身体性そのものが社会的に構築されると論じ、
Hall(1997)は表象が社会的差別や偏見の再生産に関わるとした。
またBordo(1993)は、外見が規範的な価値を押しつける構造そのものがメディアによって強化されると述べる。
これらは、外見が評価・機会・可視性を左右してしまうという問題の基盤である。
→ 本研究に関連する点
VTuber文化は、この「身体性の規範」から部分的に解放される表現であるという議論可能性を示す。
アバターを介した自己呈示については、Goffman(1959)の役割演技論を始点に、匿名性が個人の社会的属性を「サスペンド」するという議論が豊富に存在する。
Turkle(1995)はオンライン空間が複数の自己を解き放つとし、
Nakamura(2002)はデジタル空間における人種・性の表象の可塑性に注目した。
日本では Azuma(2009)がキャラクター消費の理論を提示し、
Galbraith(2019)は「キャラクターが人を動かす」構造を実証的に論じている。
→ 本研究に関連する点
VTuberは、キャラクターを表層として“中の人”の身体属性を不可視化し、観客がキャラクター性を媒介に関係を結ぶという、既存の表象論とは異なる関係を作る。
新しいメディア形式が、その内部での評価軸や競争条件を変化させるという指摘も多い。
McLuhan(1964)は「メディアはメッセージである」と述べ、
Jenkins(2006)はメディア環境が参加者の行動・関係性を再定義するとした。
近年では、Burgess & Green(2009)が YouTube の文化が評価軸を“作品の魅力”と“継続的関与”に移したことを示している。
→ 本研究に関連する点
VTuberという形式は、容姿や性別よりも「企画力・演出力・継続力・共同性」が評価軸として強まる環境を作りうる。
以上の研究は、以下の三点で本研究の主題と接続する。
身体的属性は評価の不平等を生む(身体性・表象研究)
アバターは身体属性を相対化し、別様のアイデンティティを可能にする(アバター・キャラクター研究)
メディア形式は評価構造そのものを変化させる(メディア論)
VTuber文化はこの三領域の交点に位置し、
“見た目による選別”をどの程度まで変革できるのか
を検討する意義がある。
VTuberはLive2Dや3Dモデルといったアバターを用いるため、視聴者がまず接する“外見”はデザインである。デザインは意図的であり、作品的選択肢としての可変性を持つ。したがって、実在の身体が占めていた即時的評価の一部が、設計された表象に置き換わる。
アバター化によって、視聴者評価の重心が次の方向へシフトする可能性がある:
作品性(企画・構成・編集)
表現力(声・演技・タイミング)
継続資本(更新頻度・コミュニティ育成)
これらは「後天的に鍛え得る」要素であり、見た目の先天的差とは異なる。
「中の人」は完全に隠れるわけではない。声や対応、行為から演者性が露出する。しかし、その露出は表象を通じてフィルタリングされ、演者の「生身の容貌」よりも、演出の一部として評価される傾向が強まる。
視覚的に「魅力」とされる先天的要素が参入のハードルを上げてきた歴史を考えると、アバターを用いる形式はある層の参入障壁を下げうる。これにより、従来排除されてきた属性(身体的制約、年齢、ジェンダー規範など)を持つ表現者が活動しやすくなる可能性がある。
視聴者やプラットフォームが、作品性の好みを明確に示す環境が整えば、本当に“面白い”・“質の高い”コンテンツが露出しやすくなる。アルゴリズム推薦やソーシャル拡散が作品性に基づく場合、見た目による即時選別は相対的に弱まる。
大手事務所や資本によるプロダクションは、モデル制作、プロモーション、楽曲制作などを大量に供給できるため、実際の競争は「資本格差」へと移行する。外見選別が弱まっても、資本による選別が顕在化する可能性がある。
アバター自体もデザインとしての外見を持つ。二次元・三次元問わず「可愛い」「美しい」とされる審美基準は存在し、これが新たな見た目評価を生む。結果として「実在の見た目→アバターの見た目」へ選別が移るだけに留まる懸念がある。
声質や話し方は身体に紐づき、評価の重要な軸であり続ける。声をめぐる差別や優位性は、身体的特徴の別形態として残存する。
本節では、VTuber文化における脱身体化と再身体化の力学を検討するために、星街すいせいを代表例として取り上げる。星街すいせいは、アバター表象を伴うVTuberとして活動しつつ、一般的な音楽市場──すなわち、従来の外見的身体性が強く作用する領域──へと越境した事例である。本ケーススタディは、以下の研究質問に焦点をあてて分析する。
RQ1: VTuberというアバター表象は、従来の身体性に基づく選別構造をどの程度相対化するのか。
RQ2: VTuberの実演家が一般音楽市場で評価される際、いかなる新しい評価軸が生成されるのか。
RQ3: アバター活用による脱身体化は、どのような形で再び身体性(声・技術・演出)を再前景化させるのか。
以下の分析は、公開情報・ライブ映像・音楽チャート推移・動画再生数・インタビュー発言などを基礎データとし、演者のパフォーマンス特性の質的コーディングを中心に行う(手法については第7章で詳述)。
星街すいせいは、ホロライブプロダクションに所属するVTuberであり、音楽系VTuberの中でも商業音楽領域での評価が特に高い。2023–2024年にかけての以下の動向は、その越境性を示す指標である。
『THE FIRST TAKE』への出演
YouTubeにおける楽曲の高再生数とチャート上昇(例:1000万回再生以上の楽曲群)
楽曲・演出の専門性に対する音楽批評界からの肯定的評価
国内・海外音楽フェスへの出演など「非VTuber文脈」での受容
これらは、単なるVTuber人気に依存するのではなく、表象としてのアバターと、実演者としての歌唱力・演出力が同時に評価される二層構造の存在を示唆する。
従来、ポピュラー音楽市場においては、視覚的身体性(外見・ジェンダー・年齢)が選別構造として作用しやすいことが指摘されてきた(Frith 1996; Railton & Watson 2011)。
星街すいせいの事例は、このバイアスがアバターによって相対化されうることを示す。
外見情報の先行的評価を遮断する
アバター表象は、実演者の身体的特徴を匿名化し、初期評価における外見依存度を低下させる。
視覚的身体性の制約から解放された演出が可能となる
実写では困難な映像演出(身体の分割、CG空間での多重化など)を通じて、パフォーマンスを「作品そのもの」として提示できる。
外見に基づく比較の文脈を逸脱する
同業界内の比較対象が他のVTuberであるため、物理的身体を持つアーティストとは評価軸が異なる領域で認知される。
このように、アバターは “外見選別の中核的障壁”を弱める脱身体化の媒体として機能している。
しかし、脱身体化は身体性の消去を意味しない。
本事例ではむしろ、アバターが実演者の**別の身体要素(声帯・呼吸・音程制御・リズム感)**を強く前景化する効果を持つことが確認できる。
歌唱技術そのものの評価比重が上昇する
身体的外見が排除されることで、相対的に「音声」という身体器官のパフォーマンスの重要度が増す。
ライブ演出・映像構成の技術レベルが主要な評価軸となる
バーチャルライブは演出の出来がそのままアーティスト性を構成するため、制作技術が演者の能力と統合的に評価される。
この二重性──外見を消しながら声と技術を“身体として”再構築すること──は、Butler(1990)の言う「身体のパフォーマティヴィティ」の視点とも整合する。
すなわち、身体は一貫した実体ではなく、文化的実践を通じて構築されるという理論枠組みである。
星街すいせいが『THE FIRST TAKE』に招致された事実は、アバター表象が「表象としての虚構性」を持ちながらも、実演の実力が純粋に評価される場で受容されうることを示す。
本稿の質的コーディングでは、以下が確認された:
視聴者コメントでは「歌唱力」への言及が最も多い
VTuber表象自体は特徴として認識されつつも、「仮想キャラだから評価しない」という反応は少数
音楽的要素(音程・声質・呼吸・抑揚)に基づくコメント比率が高い
この傾向は、アバター表象が外見による序列化よりも、パフォーマンスそのものへの評価を強調する構造を形成していると解釈できる。
星街すいせいの事例が示す示唆は以下に集約される。
アバターによって外見依存の選別構造は弱まるが、
その代わりに 声・技術・制作体制という別の身体性/能力が前景化する。
VTuber固有のコミュニティ的評価
音楽市場の専門性評価
この二者が重なることで、越境的成功が生起する。
これは、Hall(1997)の記号論的枠組み──身体が意味作用の媒体として機能する──とも一致する。
本ケーススタディは、星街すいせいの音楽的成功を分析することで、
VTuberが外見基盤の選別構造を相対化すると同時に、
新しい身体性(声・技術・演出)を再構築するという二重のプロセスを明らかにした。
この分析は、RQ1–RQ3のいずれに対しても肯定的な回答を導き、
VTuber文化が従来の身体性規範を再編する潜在力を有することを示している。
本テーマを学術的に実証するための方法論案:
コンテンツ分析:配信・楽曲・ライブ演出を定量・定性で分析し、評価指標(企画性・演出力・表現性)を抽出。
視聴者調査:視聴者が評価時に用いる基準(外見・声・企画・コミュニティ)を質問紙で測定。
プラットフォームデータ分析:アルゴリズム推薦と露出パターンの解析(インフルエンサーの成長経路比較)。
比較ケーススタディ:事務所所属VTuberと個人勢、既存タレントとの比較。
本稿では、VTuber文化が外見に基づく選別構造をどのように相対化するかを理論・事例両面から検討してきた。ここでは、前章までの分析を踏まえ、VTuber文化がもつ構造的特徴と、それが社会的評価の体系に対してもつ含意を整理する。
VTuberは、実在の身体から表象としてのキャラクターモデルへと“外見”を移すことで、外見評価の初期バイアスを大きく弱化させる点で、脱身体化メディアの典型といえる。しかしこれは外見の削除ではなく、「別の外見=アバター」への置換であり、評価軸はゼロ化ではなく“再配列”される。
また、外見が相対化される一方で、
**声・企画力・演出力・コミュニティ形成力など“新たな身体性”**が再び前景化する。
この点では、VTuberは身体性を消し去るのではなく、「どの身体的特性を評価軸にするか」を組み替える文化的装置として捉えるべきである。
アバター=表象の身体 と
中の人=実演者の身体 が
分離しつつも相互に補完し合うというVTuber特有の構造は、視聴者との関係性にも新しい様式を生む。
表象レベルではキャラクター性
実演レベルでは歌唱・会話・技術力
メタレベルでは「中の人」への想像・解釈
これらが三層的に作用し、従来のタレント産業とは異なる「多層的評価空間」を形成している。この構造自体が「外見に依存しない関係形成」を支えうる点は、デジタル表象文化における重要な理論的示唆である。
VTuber文化は、従来のエンターテインメント業界で排除されてきた属性──
身体の制約、年齢、ジェンダー規範、見た目の基準──を相対化し、
**「表象をつくるスキル」**という新しい入口を開いた。
これにより、才能分布の裾野が広がり、
元々芸能の機会を得にくかった層が参入可能となる
作品性(企画・演出)に強みを持つ人が活躍しやすくなる
評価軸が単一化せず、多元化する
といった効果が期待できる。これは、メディア多様性の観点からも重要な変化である。
他方で、VTuber文化は外見選別の“完全な克服”には至っていない。
本稿で示したように以下の制約が残存する:
アバターの審美基準による新たな外見選別
声質や話し方への身体的バイアス
モデル制作・企画力・広告力に左右される資本格差
企業によるキャラIP管理が関係性を規定する構造
とりわけ、企業勢と個人勢の露出格差は、「外見の代わりに資本が選別軸として強化される」という問題構図を露呈している。
つまり、VTuber文化は選別構造を変革しつつも、別の選別構造へと転換してしまう危うさを同時に抱えている。
以上のように、VTuber文化は“外見至上主義”を弱体化させつつも、別の能力・資本を選抜する新たな競争環境を作った。
したがって、VTuber文化の本質は、外見を削除することではなく、
「外見とは何か」「どこに身体性を置くか」を再設計する文化的プロセス
にあるといえる。
本研究は、VTuber文化が外見に基づく選別をどう変革し得るかを、
理論整理・メディア研究・表象論・ケーススタディを通じて検討してきた。
VTuberは外見評価の初期バイアスを弱める脱身体化の媒体である。
これは、実在の身体が担っていた即時評価をアバター表象へと“翻訳”するメカニズムによる。
しかし外見は消えるのではなく“再構築”される。
声・技術・制作力など別の身体性が新たな評価軸として浮上する。
VTuber文化は多様性と参入可能性を拡張する。
従来排除されてきた属性を持つ実演者が活躍できる土壌を提供する。
同時に、資本・制作力・アルゴリズムが新たな選別構造を生む。
外見選別が弱まっても、競争不均衡は別の形で維持される。
VTuberは身体性を“否定”するのではなく、“再編”する文化現象である。
その意味で、外見の役割を相対化し、評価軸を多元化する重要な契機となる。
本研究は、身体性・表象・デジタル文化研究の三領域を架橋し、
「身体を持たない表現者」が主流文化の中でどのように位置づけられうるかという
新しい問いを形成した。
これはポスト身体的メディアと呼べる潮流の一端であり、
今後のクリエイター経済やデジタル労働論にも接続可能である。
VTuber視聴者の評価基準を統計的に分析する調査研究
企業勢/個人勢の格差構造の計量的比較
アバター表象のジェンダー・人種的偏りの検証
国際比較(日本型VTuber文化とEN/中国圏との比較)
などが挙げられる。
VTuberは外見による選別を完全に解消するわけではない。
しかし、外見という従来“固定的”で“先天的”とされてきた属性を、
デザイン可能で、選びうる、可変的な要素へと変換した点で、
文化史的に重要な変革をもたらしている。
つまりVTuberとは、
「見た目による選別」を相対化し、人間の身体性が評価される枠組みを再編する文化的インフラである。
Azuma, H. (2009). Otaku: Japan’s Database Animals.
Bordo, S. (1993). Unbearable Weight: Feminism, Western Culture, and the Body.
Butler, J. (1990). Gender Trouble.
Burgess, J., & Green, J. (2009). YouTube: Online Video and Participatory Culture.
Galbraith, P. (2019). Otaku and the Struggle for Imagination in Japan.
Goffman, E. (1959). The Presentation of Self in Everyday Life.
Hall, S. (1997). Representation: Cultural Representations and Signifying Practices.
Jenkins, H. (2006). Convergence Culture.
McLuhan, M. (1964). Understanding Media: The Extensions of Man.
Nakamura, L. (2002). Cybertypes: Race, Ethnicity, and Identity on the Internet.
Railton, D., & Watson, P. (2011). Music Video and the Politics of Representation.
Turkle, S. (1995). Life on the Screen.










