ジョーカー男の出現
私が少林寺拳法を始めたきっかけは
「どうも日本社会は弱肉強食で困っていても誰も助けてくれないらしい」
と、気づいたからだ。昭和の時代までは、若い女性に
「暗い夜道は危ないから通らないように」
と、注意していた。その前提は、明るい人の多い通りなら人は悪いことをするのを躊躇う。万一、非常識な人がいても周囲の誰かが助けてくれる。そういう前提があったはずだ。
ところが、2008年の秋葉原通り魔事件の頃から常識が通用しないようになってきた。犯人は真昼間に殺人を実行した。もちろん、そこにいた人たちは逃げるのに必死で犠牲者を救う行動など出来るわけがない。私が現場にいても逃げていただろう。格闘技は万一犯人と対峙しなければならない状況になったら少しは役に立つだろうけれど、相手がナイフを持っていたら逃げた方がいい。
私が子供だった昭和の頃には、通り魔事件はほとんど聞いたことがなかった。今にして思うのは、昭和の頃は
「犯罪など犯したら社会的信用が無くなり、家族が離散し、一生前科者として日陰暮らしだ」
という恐怖感があったように思う。
ところが、今は違う。もともと社会的信用が無く、家族が離散し、社会のクズ扱いの人は恐怖感など皆無だ。刑務所の暮らしの方が一般社会よりマシだと考えている人もいる。
この社会の原型は学校で作られている気がしてならない。日本の学校は建前だけの社会だ。ここ「いなべ市」では一斉授業だけではなく「班」といって机を5つかためて分からない子に教えてあげるという教育が行われている。「助け合い」「和」「ワンチーム」の教育だ。「クラスの一致団結」という言葉もよく使われる。
中学3年生の進路指導では、三者面談でも校内順位は教えてもらえない。競争をあおるのは良くないと指導する。社会主義の体制が理想と考える「日教組」の組織率が100%なので、当たり前かもしれない。
ところが、高校にいくと状況がガラリと変わる。昨日まで「競争は悪だ」という指導を受けていたのに「競争に勝ち抜け」という指導に変わる。校内順位も廊下に張り出される。建前の指導から、一気に現実社会に対応する指導に180度方向転換がなされる。
大人はウソつきだ!
これが、私が高校の頃の大人に対する印象だ。私は勉強ができる方だったので、自暴自棄にならずに済んだ。しかし、社会は助け合いで成り立っていると本気で信じるように指導がなされ、勉強ができず周囲からゴミ扱いを受けていたらどうだろう。もはや、失うものが何もなかったら
「社会に復讐してやる・・・」
と、黒い思いが心の中に沸々と湧いてきてもおかしくない。
日本の教師はウソつきばかりだ。「夢と希望を持て」「やればできるんだ」などと教えるから、夢も希望も持てず、やっても出来ない子は挫折感に打ちひしがれる。
「夢と希望が持てるのは、1%の人だけ。食っていける職業に就けたらラッキー」
そういう現実を教えてあげるのも、教師の仕事ではないのだろうか。
「女王の教室」のドラマの中で阿久津真矢先生はこう言いました。
愚か者や怠け者は、差別と不公平に苦しむ。賢いものや努力をしたものは、色々な特権を得て、豊かな人生を送ることが出来る。それが、社会というものです。あなたたちは、この世で人も羨むような幸せな暮らしをできる人が、何%いるか知ってるたったの6%よ。この国では100人のうち6人しか幸せになれないの。このクラスには24人の児童がいます。
ということは、この中で将来幸せになれるのは、一人か二人だけなんです。残りの94%は毎日毎日不満を言いながら暮らしていくしかないんです。
日本は綺麗ごとを言う人が多い。加害者の人権尊重を主張する人の何と多いことだろう。だから、刑務所の生活も最底辺に生きる人にとっては夢の生活のように思える。本当は
「あんな所は死んでも嫌だ!」
というくらい酷い環境でなければ罰と言えないだろう。