今から18年前の2001年6月。
当時イベント系の人材派遣の仕事をしていた自分は
とある事をきっかけに、ゲーム業界に転職しました。
当時29歳。
それまでにミュージシャン(ボーカリスト)を目指していたり
学習塾の講師をしていたり
冠婚葬祭の司会兼営業をしていたり…
それがいきなりゲーム業界へ!
プログラムもできない
絵も描けない
3Dソフトってナニ?(MAYAって何?)
ということで、当初は周りのスタッフから
「何でこいつゲーム業界にはいったの?」
という目で見られていました。
半年間はそんな会社で、自分より若い経験者の
雑用やったり企画のお手伝いをしていました。
企画書出しても
「お前の企画はイ〇ポだ」
(要約:エッジが立っていない、面白くない)
「世界観から入り過ぎている」
(要約:ゲーム性がない)
そんな事を言われ続けていました。
半年後のある日、上司から会議室に呼ばれて
「パチンコ打った事ある?」
と聞かれました。
パチンコは友人に連れられて2回ほど行った事がある程度で
(打ったのはギンパラでした)
実際殆ど打った事はなかったと言ってもいい感じでした。
「会社でパチンコの液晶演出を作る事になったんだけど、プランナー&ディレクターで参加しないか?」
その一言がきっかけでした。
当時何の実績も結果も出していない、そしてパチンコも正直良く分からない自分でしたが、何かきっかけが掴めれば、何か会社に貢献したいと思った自分は二つ返事で
「やります」
と言いました。
ちなみにディレクター職とは何か?も知りませんでした(苦笑)
その足で上野(御徒町)の「パサージュⅡ」に連れていかれ、藤商事の「熱血!竜馬くん」を打つことに。
もちろん自腹。
見事に25,000円のまれました(笑)
薄給だったのに…。
しかし、次の日の土曜日、また朝から上野の同じホール、そして同じ台を打つ自分。
その時40,000円勝ちました。
そこから自分の遊技機開発者への道が始まりました。
当時会社は2つのメーカーから開発委託を請けていました。
理由は2つ。
1・当時いた開発メンバーが元大手ゲーム会社経験者&有名ゲーム開発者
ばかりだった。
2・当時遊技機の映像演出の基盤の性能があがり(実際はまだ研究段階でしたが)
ムービー主体の演出ができるようになった。
当時はスプライトアニメの連番データを使うのが主体で、
ムービーを乗せるにしても容量が大きく
ROMの中になかなか入らないものばかりでした。
とにかく実績が欲しかった。
パチンコだから、ギャンブルだから(あくまでも遊技機ですが)とか全く気にしなかったです。