遊技機を会社で作り始めて2年が経ったある日。
会社が突然分裂します。
元々ゲーム会社だったのですが、この2年間ほとんどゲームを作らず
遊技機ばかり作っていたのが、親会社からNGが出たためです。
親会社(大手ゲーム会社)にしてみたら
新しいゲームの可能性を考えて作った会社が、企画を出さずに
遊技機ばかり作っていたんですから、怒りますよね。
ただ勘違いしないで頂きたいのが、自分含め企画チームは
ゲームの企画書は出し続けていました。
自分も半年間の間に、4つほどゲームの企画書を、
土日に出社して描いていました。
そして結果、2003年の5月に会社の遊技機チームは実質解散してしまいます。
A:ゲーム開発を続けたい人たちは残留。
B:遊技機開発の主要メンバーだった人達(役員含む)は独立。
C:それ以外の遊技機開発メンバーは大手遊技機関連の子会社に転職。
自分は契約上ゲーム開発者として残る事ができませんでした。
で、自分は結果としてCに行くことになりました。
実はBのメンバー(上司のプロデューサー)からも誘われていたのですが
飲みの席で誘われていたのですが、酔っぱらってしまい覚えていなかったというw
まぁCもそのままダイレクトに転職したわけではなく、別の会社に転職し
その会社からの出向先が、たまたまCの会社でしたw
(転職関連の話は、また機会を作って書きます)
さて、そのCの会社は、当時親会社が遊技機関連ではイケイケの会社でした。
その会社が取ってくる版権を吟味して、遊技機の企画書に起こして開発に繋げる。
ないしはメーカーに提案するというものでした。
当時(2003年)はまだまだ市場に出る遊技機はオリジナル企画とIP(版権)企画は
50対50の割合で、今考えるとちょうどいいバランスだったと思います。
版権ものもあり、新しいゲーム性(見せ方)はオリジナルで行う。
スペックはほぼ統一されており(多少の出球性能の違いはあれど)
その中で、ユーザーを飽きさせない様々なゲーム性が考案されました。
実際ROM容量が少なかったので、IPものを使用しても
そこまでアニメ等の演出ムービーを入れことはできないですし。
ただ見栄えはかなり良くなりました。
その中で、特に版権に目を付けた親会社は、多くの版権を押さえていました。
リストの中で自分が「これは行ける!」と思ったものが、
某巨大ロボットものでした。
もちろんアニメは何回も見ており、その内容の謎の部分の考察も
自分なりに行っていたので(ただ凄く好き!というわけではなかったです)
若いプランナーの子と上司の3人で、3日程で企画をまとめました。
この時は、前の会社と違い、比較的のんびりしたスケジュールだったので
ぶっちゃけ、アニメのDVDを流しつつ、さらにお酒を飲みながら
「あのシーンはスーパーリーチの信頼度の熱い部分で使うべきだ」
「このシーンをメッセージ予告にしよう」
という、今では考えられない、ぬる~い企画作成でしたw
もちろんこの時、あんなにシリーズ化されるとは夢にも思いませんでしたが。
そして、その後企画だけではなく、機種開発そのものを社内で
行う事になり、自分がチーフディレクターに任命されます。
給与も前の会社の倍近くになりました。
ところが、ここで自分の中で大きな落とし穴が待っていました。
・前の会社より給与が上がった
・業界入って2年半の自分がチーフディレクター
・自分の仕事を叱咤する上司や先輩がいない。
等々あり、今考えると
「すごく調子に乗っていた(悪い意味で)」
と思います。
やるべき仕事ではなく、やりたい仕事を優先させた。
仕様書作りが遅れた。
前の会社のやり方をそのまま継承して進めた部分もあり
開発者を縛り過ぎた。
結果…チームの女性デザイナーとプログラマーから
クーデターを起こされてしまいます。
今考えると、本当に自分が悪い部分が多かったです。
完全に天狗になっていたと思います。
ただこの時の自分の中での大きな失敗「天狗になった恐ろしさ」が
自分の中で消化吸収されていき、自分の心の形成にまで繋がります。
そして、プロジェクトを途中で外され…。
居場所を見失った自分は、再び同業内で転職する事にしました。