2020.3.5 大和村を存分に堪能した後、奄美市市街を経て、旅程最終日の龍郷町の国道58号線沿いの宿泊宿「愛かな」へ到着。
この国道58号線、たしか、沖縄にもあったような・・・で調べると、
・国道58号は、鹿児島市~那覇市の一般国道。
・途中、種子島、奄美大島を経由する。
・大部分を占める海上区間の延長609.5 kmは日本最長。
・海上区間を含む国道の路線別総延長でも2015年4月1日現在、第1位の長さ。
・国道58号の沖縄県内部分は、米軍が整備・指定したHighway No.1(那覇市 - 国頭村)がその起源。
・沖縄返還と同時に「沖縄の復帰に伴う建設省関係政令の改正に関する政令」が施行され、政府道一号線を含む鹿児島市から那覇市までの区間が一般国道58号に指定。
う~む・・・それで、奄美大島の唯一の国道として走っているわけですね。
素泊まりで宿泊した「愛かな」さんの内部。
シェアハウス風ですね。今回は、我々しか宿泊者が居なかったので、まるごと家の鍵を預けられました(笑)。できて間もないようで、とても綺麗でしたよ。共同のキッチンもお風呂もピカピカでした^^
「愛かな」さんに聞いて、近くのコンビニ「森山ストアー」へ買い出しに。。。お店の人に尋ねたらマスクもトイレットペーパーも品切れだと・・・。こちらは現金払い。
その後、晩御飯を食べに近くの飲み屋さんへ。一番近いタイ料理屋さんは、どうも休みのようで、「奄美 キッチンハウス pada-パダ ~定食・ランチ・居酒屋~」さんへ行きました。こちらもpaypay支払い。
居酒屋さんと聞いたので、周りの雰囲気から赤ちょうちんぶら下げている、オヤジ臭のする飲み屋さんかと思ったら、とんでもなくお洒落な居酒屋さんでした^^
鶏刺し・・・美味しかった~^^
なんて貝だったかな。
こちらも美味しかった~。 パスタもいただきました^^
見慣れない名前の焼酎・・・じょうご、高倉、一番橋、山田川・・・・地元の小さな酒造屋さんの焼酎だそうですよ。どれも美味しかった^^
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2020.3.6 さて、いよいよ最終日です。格安航空チケットなのでお昼までの自由時間です。
2020.3.6(金) 奄美大島発 ―東京(成田) 着 ピーチ MM542(12時10分 ― 14時15分)
「愛かな」さんの2階から北方向
同じ「愛かな工房」の建物の道路側は、ちょっとしたショップになっていて大島紬製品が。こちらもpaypay払い。
こちらでは大島紬の「泥染め体験」もできるようですよ。
「放課後等デイサービス 愛かな」もされていました。女将さんに半日何処かお勧めのところがあるかと尋ねたら、ほとんど知られていない「愛かな」の南側にある見晴らしの良い丘を紹介してもらいました。道路が開通していない為、行きにくいけれど・・・と。そりゃ、行かなくては(笑)
そこは「2つの海が見える丘」と名付けられた、素晴らしい展望の場所でしたよ。
バラグライダーのテイクオフの板があって、少し前まで行ってみました。
龍郷のくびれの辺りが一望できます。
南方向も良く見えます。
同行者の先輩にドローンを飛ばしてもらいましたよ。
いや~、この視点はスゴイですね~^^
さて、戻ります。「大島紬村」へ向かう途中、「手広ビーチ」の名前が飛び込んできました。ここは、わたしのウミウシの師匠が良くウミウシを探していたビーチです。とりあえず、海へ行ってみました。
となりのビーチからサーファーが上がってきました。
これは良さげな磯です。すこしウミウシ探索してみました。すると・・・・
居ましたよ! それも2種、寄り添っています。
左の黒っぽいのが「クロスジアメフラシ」右の赤い線の入った貝殻を背負っているのが「ベニシボリガイ」。ベニシボリガイは、なんと、初見でした。ラッキー^^
スマホでの撮影なので解像度は悪いですが、しっかりと目も見えています。いや~、ほんの15分くらいで出逢えるとは・・・ウミウシの神さまが下りてきましたね~^^
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時間も押してきちゃっているので、その後、直ぐに大島紬村へ。
大島紬生産工場観光庭園 大島紬村
本来、大島紬は分業作業のようですが、ここでは観光の為に、泥染~機織りまでの製造工程が見学できます。
泥染めの風景
ハナチョウジ・・・メキシコ原産のゴマノハクサ科ラッセリア属の植物
サルビアのように甘い蜜が吸えますよ。
シャリンバイの花 このシャリンバイが泥染めに使われます。
シャリンバイのチップ
樹皮から大島紬の染料を採取
シャリンバイに含まれているタンニン酸色素と泥田の中の鉄分(酸化第2鉄)等が化学結合を85回以上繰り返し染色することにより堅牢(色落ちしない)で深く光沢のある渋い黒色に染まります。
生地を染めるのではなく、このように糸から染めます。
細かい作業ですわ。
まるでカラーのバーコードです。
紬(つむぎ)とは、真綿糸(動物繊維=蚕 (カイコ) の繭 (まゆ) から紡いだ紬糸)で織った絹布のことをいいますが、大島紬は現在本絹糸を使用した「絣(かすり)織物」であり、素材の分類上で紬と呼ぶのは妥当とは言えませんが、明治の中期まで紬糸を使用し、大島紬として既に市場に知れわたって定着していたため、古来の名称がそのまま受け継がれ現在に至っています。
つまり、昔の大島紬は、動物繊維の綿の屑糸を寄せ集めて糸にして「紡いで」生地にしていた。今のような絹糸(シルク)を用いて作られるようになったのは、大正時代辺りからだそうです。私的に昔の大島紬がどんなモノか見てみたかったですねー。
設計染色された糸で実際に機織り機で生地(反物)を作っていました。相手は糸なので模様がズレたりします。そうした場合は、
針で糸を一本一本調整していきます。いや~、細かい作業ですわ。こうしてできた生地は、
拡大するとこんな感じです。まさにドット絵ですよ。
10:19 観光園内に高倉が展示されていました。観光園の支払いもpaypayでできました。
お土産ショップにちょっと寄って、空港へ急ぎます。レンタカーを返して、空港で荷物を預けて、空港内のジョイフル奄美空港店(ここしか食べるところがない・笑)でカレー食べて、ビール飲んで、良い時間になりました。最後に鶏飯をもう一回食べようかと思いましたがメニューにありませんでした(笑)。ここもpaypay払い。
12:01 奄美空港
帰りは富士山が綺麗に見えていました。
伊豆大島
三浦半島と富士山
14:00 ジェット機が並行していました。帰りは2時間くらいで到着。速い!!
いや~、盛沢山の旅でございました。楽しかった~。
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・ほとんどの場所でpaypayが使えたのは驚きでした。導入が早いですねー。
・加計呂麻島・5マイルでユタのおばあさん(笠利町)を紹介してもらったのですが、時間が取れずお会いすることはできませんでした。残念。。。。
・帰りの3/6到着時の成田空港はガラガラでした。使用した民間駐車場もキャンセルが相次ぎ、翌日からは予約を取らないとの事。悲鳴をあげていました。
・奄美の農業 は栽培面積、生産額において、さとうきびが第1位。>>しかし、砂糖のあまりにも大きい内外価格差を考えると、政府の保護や支援なしには奄美のサトウキビ栽培や糖業を維持することは難しい。
・稲作転換政策を機に水田の畑地化が推進され、 特に製糖工場の立地している周辺地域の水田は急速に消えていった。>>渡り鳥の中継地減少。
・江戸時代後期、薩摩藩主島津重豪の時代に本領と差別化するため一字の名字とすることになり、以前よりの郷士格3家に対しても一字姓とするように命じられた(1785年)。>>元ちとせさん、中孝介さん・・・
奄美大島出身の歌姫“城 南海(きずき みなみ)
「愛、奏でて」♪single西郷どん紀行より・奄美の島唄はどこか哀愁やわびしさを感じさせるものが多いです。
古くから唄い継がれてきた島唄・・・日本本島の民謡は仕事歌が多いのに対し、島唄は生きる悲しみや怨嗟の歌、海への豊穣を祈願する信仰歌などが多い。これには、奄美が辿ってきた歴史が多いに関係している。(下記サイトより引用)
沖縄民謡の中でもある種のものは島唄と呼びますが、島唄は、元々は奄美で歌われる民謡を指すもの。宮廷音楽が主流の琉球民謡に対し、奄美島唄は薩摩藩支配下の厳しい庶民の生活から生まれたものです。
奄美島唄の特徴は、沖縄三線よりも細い弦で音程が高い三線の演奏に、裏声を多用して歌う民謡です。島唄はシマ唄とも表記されますが、その理由は奄美でいうシマ(集落)ごとに歌い継がれてきた唄だからです。また、島唄は1つの曲が固定的な形を持たないことも特徴です。
その歴史は古く、薩摩時代に作られたと思われる島唄は哀愁を帯びており、芸術性も高いと言われています。(下記サイトより引用)
・奄美はキリスト教の島
奄美大島北部を中心にカトリック教会が多く見られ、人口に対するカトリック信者の割合が、国内でも信者の多いとされる長崎県以上と言われる。
歴史上では、1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、日本におけるキリスト教の宣教が始まり、奄美大島でカトリックの布教が始まったのは1891年とされる。
だが、下記のサイトでは、「スペインはたくさんの伝道僧を日本に送った。伝道僧は島伝いに日本を北上した。琉球から奄美諸島を経て九州に上陸した。僧の一部は大名や織田信長にまで影響を与えた。」と書かれています。となると史実よりも以前から・・・・・大笠利教会の建物には「Arms with Alpha and Omega」が・・・
新約聖書の「ヨハネの黙示録」(1章8節、21章6節、22章13節) に、主の言葉「私はアルファであり、オメガである」[1](コイネーギリシャ語: τὸ α καὶ τὸ ω; 英語: I am the Alpha and the Omega)として現れる。なお、21:6 と 22:13 ではこのフレーズの後に「最初であり、最後である」と続く。ギリシャ文字の最初の文字Α(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)が並べられており、最初と最後、すなわち、「全て」「永遠」という意味を持つ。同じ意味で、「A to Z」「A-Z」「AZ」などと、表記されることがある。
・「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」世界自然遺産登録を目指す
・加計呂麻島のカケロマの名前の由来
・奄美大島から見ると「カゲロウ」のように見えるから。
・沖縄(琉球)から加計呂麻島を見ると奄美大島に寄り添った「影のような島」>カゲヌマ>カケロマとなった。(ヌ=の、マ=島)
・「加計呂麻」は明治以降の日本政府の当て字で、本来は「カケロマ」。
・同様に「波照間島」=ハテルマ、「慶良間諸島」=ケラマ、「多良間」=タラマなど
・奄美地方に影響を及ぼした津波として記録に残っているものは、1911年(明治44年)の喜界島地震、1960年(昭和35年)のチリ地震津波、1995年(平成7年)10月18日、19日に発生した奄美大島近海(喜界島南東沖)によるものがある。
・葬儀について
日本では、風葬の習慣があった沖縄の一部や奄美群島などにおいて行われていました。洗骨(せんこつ)とは、ご遺体を土葬や風葬した後一定期間おき、再度取り出してご遺骨を海水や酒などで洗ってから骨壷へと納める葬制。埋葬してから何年か後に、洗骨を伴う改葬を行う。それをシマではハカアラタムル(墓改め)、あるいはカイソ(改葬)と称している。砂地では7年から13年ほどでカイソできるが、粘土質の土地ではそれ以上かかる。また、長く病気をした人は比較的早く骨になるが、健康体であった 人は時間がかかるとされる。一般的には13回忌頃行われる。
琉球王国の王室では、戦前まで洗骨の儀式によって納骨されていたとされる記録が残っている。(下記サイトより引用)http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/10387/1/No23p003.pdf
以上で2020.3.2~6奄美大島&加計呂麻島の旅行記(完)
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★「旅行記」
今まで行った旅行記のまとめです。
+++++シリーズ投稿の分類一覧 by matol+++++
・「HUAWEI P30 Pro」スマホHUAWEI P30 Proで撮った投稿まとめ
・「神社参拝リスト」参拝した神社の投稿まとめ
・「還暦過ぎのオヤジのつぶやき」日々のつぶやきのまとめ
・「ウミウシ」いままで出逢ったウミウシの紹介投稿まとめ
・「鳥(トリ)」 いままで出逢った鳥(トリ)の紹介投稿まとめ
・「植物探訪」いままで出逢った「植物」の紹介投稿まとめ
・「古物たちのお勉強」の紹介投稿まとめ
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