2017.9.8~11 親友と二人でオヤジ軍団九州旅行(佐賀~長崎~大分~福岡)へ行きました。
2017.9.10、この日も朝から良い天気。ありがたいです。一週間後にズレていたら台風でしたからねー。別府温泉チェックアウト後、ちょっと海が見たいねという事で、海岸通り、国道10号へ。
別府方面
別府湾、実に穏やかな海でした。その後、別府へ戻り湯布院方面へ。
正面に何やら見えますね。
ラクテンチでしたー。ブラタモリで見てたので知ってましたよ。
ラクテンチは、別府市にある遊園地。株式会社ラクテンチが運営。
ここの敷地内に1903年(明治36年)~1916年(大正5年)銀鉱石を産出する鉱山が存在していたが、高温温泉が湧きだし、温泉枯渇&不況採算割れで閉山。残った敷地と温泉を有効活用する目的で、遊園地開園した。 1929年(昭和4年) 別府遊園として開業しました。
時代の荒波にもまれ紆余曲折しながらも、営業を続けているラクテンチにエールを送りたいです~^^ その後、ラクテンチ付近のあちこちに湯煙を上げる地元の道に迷い込みながら(笑)由布岳方面へ。
由布岳 昨日も大分自動車道から見えていましたが、いや~スゴイ存在感ですね。
・由布岳標高1,583mの活火山。
・古来より信仰の対象で、『古事記』や『豊後国風土記』にも記されている。
・「柚冨郷」の近くにあることが「柚冨峯」という山名の由来。
・宇奈岐日女神社(式内社)の祭神であり、また、山岳仏教信仰の山として以前は佛山寺(湯布院町)の伽藍がありました。
・約9万年前に鶴見岳と同時に火山活動を開始した火山。約2,200年前には山体崩壊を発端とした大規模な噴火が発生。最新の噴火は約2,000-1,900年前で、有史に残る噴火記録はないが、山麓には由布院温泉を始め温泉群が点在し、活火山であることを思わせる。
湯布院 湯の坪街道
江戸の商店や長屋が続いているようなオシャレな街並み。でも朝早くだったので人もまばらでしたよ。正面は由布岳。
大相撲の九重親方(元大関・千代大海)の優勝額等を展示する相撲ミュージアムが入った観光施設「御料荘園乃里 湯布院御所」・・・できたばかりだったようですよ。その後、宇奈岐日女神社へ。
++++++++++
ここから「宇奈岐日女神社」です。
とても雰囲気のある参道です。
まるで異次元空間へと誘うようです。
神門
神門をくぐると右側に御神木の切り株が並んでいました。平成3年の台風により、なんと144本の杉が被害にあったようです。今でも大杉が立っていたら・・・残念ですね。
拝殿
本殿
拝殿前 境内社の政正社と厳島神
境内はとてもきれいにされていました。
宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ/うなきひめ-/うなぎひめ-)は、
大分県由布市にある神社。式内社で、旧社格は県社。「六所宮」とも呼ばれるほか、「木綿神社(ゆふじんじゃ)」「木綿山神社(ゆふさん-)」の通称もある。主祭神 国常立尊 国狭槌尊 彦火火出見尊 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 神倭磐余彦尊 神渟名川耳尊
ウナグヒメについて[編集]
現在の祭神は、上記のように6柱の神々である。一方『延喜式』神名帳に記される社名は「宇奈岐日女神社」であり、かつ六国史における神階奉叙は「宇奈岐比咩神(宇奈支比咩神)」に対して行なわれていることから、当初の祭神は「ウナグヒメ(ウナギヒメ、ウナキヒメ)」であったと考えられている[1]。
「ウナグヒメ」の名について、「うなぐ」とは勾玉などの首飾りを意味するとし、こういった呪具を身につけた女首長の巫女が神に転じたと推測されている[2]。一方、「ウナギ(鰻)」に由来するとする説もある(後述)[1]。このウナグヒメに関して、古くは由布院盆地が湖であったという伝説(蹴裂伝説)がある。この中で、由布岳の神であるウナグヒメは目の前に広がる湖を見て、力持ちの大男に命じて岸辺を蹴破らせた。男が蹴破った結果水が抜けた湖は盆地となり、その跡を現在の大分川が流れるようになったという[3]。大男は「道臣命」と名付けられたといい、現在も末社の蹴裂権現社に祀られている。また、湖の乾き残りが金鱗湖となったという伝えもある[4]。しかしながら盆地の底にあたる地点から土器が発掘されたこと等もあり[注 1]、考古学的・地質学的には湖伝説の真偽は明らかとされていない[4]。伝承の考証として、ウナグヒメを『豊後国風土記』にも見える「速津媛」(速見郡の由来)とする説や、ヒメヒコ制の指摘がある[4]。
なお、大分県から発見された古文書『ウエツフミ』によると、ウナギヒメは綿花の栽培を司る神様であり、このあたり一帯がユフ(木綿)と呼ばれていたことからも、かつては木綿の栽培地であったことが推測される。鎌倉時代に、この『ウエツフミ』を書き著したのは初代・豊後国主の大友能直公であり、その記述は参考に価する。
創建[編集]
社伝によれば、創祀は景行天皇12年10月であるという[5]。『神社明細帳』では、景行天皇が征西のおりに当地で祭を営んだといい、同天皇3年に速津姫が勅を奉じて創祀したという伝承を伝える[1]。
当社は由布岳の南西山麓に鎮座している。『太宰管内志』では「木綿山にます神なので木綿ノ神社ともいう」という記述があるほか、『豊後国志』でも宇奈岐日女神は由布山神であると記されており、元々は由布岳を神体山として成立した神社であると見られている[1]。
一方、由布院盆地が古くは湖であったという伝承に基づき、ウナギ(鰻)を精霊として祀ったことに始まって、のちに由布岳の神と習合したという推測もある[1]。
概史[編集]
国史の初見は嘉祥2年(849年)に従五位下の神階に叙せられたという記述であり、元慶7年(883年)には正五位下に昇叙された。これらの奉叙は、「宇奈岐比咩神(宇奈支比咩神)」に対して行なわれている。
平安時代中期の『延喜式』神名帳には豊後国速見郡に「宇奈岐日女神社」と記載され、式内社に列している。
江戸時代までは佛山寺と習合していたが、神仏分離により現在の姿となった。明治6年(1873年)には近代社格制度において郷社に列し、大正12年(1923年)には県社に昇格した。
境内は1万坪を超え、杉の古木に囲まれていたが、平成3年(1991年)の台風で数多く倒壊等の被害を受けた。
本殿は朱塗の流造。また、大鳥居が由布院の中心部に立つ。
宇奈岐日女神社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2019年8月18日 (日) 00:37
個人的な感覚では、由布岳の神様というよりも湯布院の町の氏神様・守り姫という感じがしました。とても素敵な神社でしたよ。