どうもアート屋です!
今回ははるか先生のゆるぼ企画『好きな映画』に参加します!
私の今回の推し映画は『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(2007)です!
『桐島、部活やめるってよ』で有名な吉田大八監督の監督デビュー作ですね。
ちょうどこの記事を書いている途中で、『桐島、部活やめるってよ』の記事をジョシさんが書いてくれたのでそちらもぜひ見てね!!
当時この映画を見たのは『主題歌がチャットモンチーだったから』というだけの理由で、もともと内容についての期待値はゼロだったわけなんですが、これが意外と面白く、とても好きな映画のひとつとなりました。とはいえかなりブラックなユーモアで、コミカルではあるものの人を選ぶ映画だと思います。色んな意味で胃の痛くなりそうなシーンも多いです。
4年前、当時高校3年生で山奥の村に暮らす女優志望の澄伽(サトエリ)は、金銭的理由により父親に上京を反対されて激昂し、父親と止めに入った異母兄の宍道(永瀬正敏)をナイフで傷付ける騒動を起こします。そして上京資金を貯めるために同級生相手に売春。これらの事件の様子を全て覗き見していた妹の清深(佐津川愛美)はなんとその話をホラーマンガにして雑誌に投稿、新人賞を獲得してしまいます。
その漫画は『天才中学生現る!』と大々的に雑誌に掲載され、村の人々の目にも留まるところとなります。清深はペンネームを使わず本名で実話を投稿してしまったため、澄伽の一連の行動はマンガを通して村じゅうに暴露されてしまいます。笑いものにされ村にいられなくなった澄伽は家を飛び出し上京、女優を目指すものの、演技ができないうえに態度が悪いためほとんど仕事が取れない毎日。しかもそんなふがいない現状に対し、「マンガにされたせいで人の目が気になって演技に集中できないようになった」と清深に責任を押し付け現実逃避する始末。当然そんな人間が変われるはずはなく、いたずらに4年の歳月が経過します。
そんなある日、清深の目の前で両親が揃ってトラックによる事故死を遂げてしまいます。兄の宍道が自分と妻である待子(永作博美)の稼ぎだけでは仕送りを続けることが難しいと澄伽に連絡すると、澄伽は葬式直後のタイミングで東京から帰ってきます。兄を説得し、自分への仕送りを継続させるためです。
澄伽は兄を説得する傍ら、4年前の件をダシに清深をネチネチといじめます。宍道はそれを制止しようとはするものの、4年前の事件後に澄伽の自殺を止めるために「澄伽は自分にとって必要な存在だ」と説得してしまった流れで関係を持ってしまっており、そのとき課せられた澄伽だけを大事にするという約束に縛られて二の足を踏んでいます。宍道は澄伽が上京した後も律儀に約束を守っていて、村での体裁を保つために結婚した妻ともセックスレスであり、今回も澄伽の暴走を止めるどころか澄伽への仕送りを続けるために炭焼きの仕事だけでは賄えないと就職活動に勤しみます。
あっ、ちなみに宍道はシンジと読みます。
さてそんな折、澄伽は雑誌で見かけた人気映画監督の小森へと売り込みの手紙を何通も送りつけており、しばらく文通を続けていました。ある日小森監督から次回作の出演オファーの手紙をもらった澄伽は有頂天になって清深のことを許しますが、その直後に澄伽の借金の取り立て人が東京からやってきます。
そこで澄伽は借金取りと結託し、4年前の売春相手だった同級生に美人局を仕掛けて100万円を騙し取り返済に充てます。お金を奪われパンツ一丁で物置小屋に放置される哀れな同級生。澄伽は4年前からまるで成長していないどころか、悪化すらしているのでは……。
……と、思った矢先に、物置小屋の中からこそこそと出てきたのは妹の清深。妹も妹で相変わらず、姉の動向を隠れて覗いていたのです。
その後、宍道の暴力が原因となって入院していた待子が退院して戻ってきます。宍道が怒って顔にぶっかけたそばつゆが目に入ったあとしっかり洗わなかったためコンタクトと角膜の隙間にそばつゆが入ってしまいあわや失明の危険というところだったようです。
約束に縛られながらも澄伽と家族の関係を取り持とうとしたり、就職活動がうまくいかないことで精神的に追い詰められていた宍道は、入院させてしまった負い目もありここで初めて妻を気遣う言葉をかけます。「救急車も入院も初めてでわくわくした」などとニコニコ話す待子に「悩みとかないんか」と訊ねる宍道。それに対して待子は「悩みならあります」と答えるのですが、その悩みとは宍道が家庭の問題を自分一人で抱え込んで妻である自分に何も相談してくれないこと。「夫婦なんですから」と迫る待子を始めは拒絶していた宍道も、何度突っぱねてもめげない待子に惹かれ、ついに二人は添い遂げます。
翌日、宍道と待子の関係が急接近していることからすべてを察した澄伽は、その夜「約束破ったでしょ」とカッターナイフを突きつけて宍道に迫ります。そして情事に及ぼうとする直前、縁側から物音が。宍道がふすまを開けて覗きこむと、そこにはまたしても清深の姿が。宍道はここでも事を荒立てず、見なかったことにしてふすまを静かに閉じることを選択し、清深がいたことは澄伽には隠したままにします。そして澄伽との関係が見つかったことでいよいよ終わりを悟った宍道は、炭焼き場で火事を起こして焼身自殺します。
澄伽の動向を終始覗き見ていた清深は、その事実をもとに『澄伽が女優を諦める物語』をマンガに描き、またしても雑誌で賞を獲得。担当編集がつき連載の打ち合わせの連絡が入ります。両親と宍道が死んで間もない家を捨てて漫画賞の賞金で上京することを澄伽と待子に平然と告げます。
さらに澄伽が文通していた小森監督からの手紙も本物ではなく、郵便局でバイトをしていた清深による偽物であったことをバラします。怒り狂った澄伽は清深をナイフで刺しますが、それもおもちゃにすり替えられており、すべては清深の手の内。
「やっぱお姉ちゃんは、最高に面白いよ。」
お姉ちゃんは自分の面白さがわかっとらん、せっかくマンガにするのを我慢してたのに、私のところに帰ってきちゃいかんよ、と清深は続けます。清深もまた、マンガの為ならモラルを度外視できるサイコパス傾向があるようですね。
颯爽と旅立つ清深、感情が極まって手紙を破り捨てる澄伽、一緒に手紙を破る待子。
そして突然動き出す、壊れた扇風機。コンセントも抜けているのに。
澄伽に演技の才能はありませんでしたが、念力の才能があったようです。
澄伽自身は気付いていませんが、待子だけは見ていました。
澄伽は東京に向かうバスの中で清深を捕まえ、一悶着あったものの、一緒にバスで東京に向かうことになります。
「あんた、私のことをマンガにするなら、ちゃんと最後まで見なさいよ。ここからが面白いんだから」
澄伽の女優への挑戦はこれからも続くようです。
結局のところ、タイトルにある『悲しみの愛』とは自己愛、登場人物それぞれのエゴイズムだったのではないかと私は考えています。自己愛は生存に必要不可欠な要素ですが、同時に人間としての逃れられぬ業のような悲しい一面もあります。行き過ぎたエゴによって他者を犠牲にしてしまう人間のふがいなさのようなものが現れている映画だと思います。
澄伽は自分がうまくいかないことを常に他人のせいにして生きている類の人間です。事件からすでに4年も経っているというのに自分の人生の責任をいつまでも妹になすりつけて逃げ続けているので成長できません。典型的なモラハラタイプです。
この家では成長過程で父親からの精神的・肉体的暴力があったのかもしれませんね。作中の回想シーンでも、澄伽のことをマンガにした清深が父親に殴られるシーンがあるほか、「女優になるために上京したい」と打ち明けた澄伽に対して父親は「家族の生活を困窮させて自分だけ女優になるのがお前の幸せなのか」と家庭の事情を盾にして脅迫しています。他に言い方ってものがあるだろうに、相手を悪者に仕立て上げて暴力で屈服させる以外の解決方法を知らないのでしょうか。
そして「お前には女優の才能はない」と娘の人生観をバッサリ否定。娘より家が大事、というタイプなのかもしれません。澄伽の自己中心的モラハラ気質は父親譲りなのではないかと思います。清深のサイコパス傾向も然り、宍道のDV癖も然り。
女優になるために家族や周囲の人間を犠牲にする姉も姉なら、面白いマンガの為なら姉の醜態すら描かずにはいられない妹も妹といったところですが、女優やマンガへの異常性すら感じる熱意と執念は才能の一種でもあると私は思います。私と絵との関係性も、他者から見ればあるいは異常なものがあるのかもしれない、そういったものを感じます。
澄伽は演技のセンスは絶望的ですが、何年結果が出なくても諦めずに続けられるというのは大切なことだと思います。あとは結果を他人のせいにせず、反省と改善を続ける事ができれば、可能性はあるかもしれません。
宍道は家族のため、家の安寧の為に自分一人で責任を抱え込み、そのストレスが澄伽との約束もあって妻への暴力となって表れてきてしまいます。村の中に気兼ねなく相談できる友人などはいなかったのでしょうか。宍道は父親の後妻の連れ子ということで、澄伽や清深と血が繋がっていないこともありなにかと複雑な立場にあったのかもしれません。
兄嫁の待子がこの作品の良心です。変わり者ながらいつも(表向きは)明るく前向きに振る舞っており、とてもかわいらしくもかわいそうな悲しい役回りをしています。夫からは理不尽な暴力を受け続け、澄伽にはパシリのように使われる始末。それでも怒りや悲しみを露わにせず、二人のことを憎みもせずあっけらかんと接し、ただ笑顔で尽くしている……。みんなもっと待子さんを大事にしてあげて欲しい。
私はこういう人にこそ救済があってほしいのですが、ラストで家長亡き家を姉妹二人がほっぽり出して上京してしまうため、一人ぼっちで村に残されてしまうことになります。一家それぞれのエゴによる最大の犠牲者です。
それなのに本人は一人で扇風機に向かって念力の練習をし続けるシーンで映画が終わるのだから、異常なくらいタフで美しい人だと思います。いつか無意識に押し殺して積み重ねてきた苦しみが暴発してしまうのではないかという不安もあるのですが、もし本当にうまくストレスを受け流して生きられているのであれば、これ以上ないくらい平和で素敵な人ですね。私も待子さんのようになりたい。
ちなみにこの作品から『人のセックスを笑うな』を経て、私の中で永作博美ブームが訪れました。
ややオーバーな演技や不自然な方言による片言セリフなども散見されますが、痛々しいほど人間らしくて好きな映画です。みなさんも興味があればぜひぜひ。
それでは今回は以上です。読んでくれてどうもありがとうございました!
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