僕の大学(学部)ではジェンダー系統の話が盛んだった。理由は女性比率が多いからと思いかけたけど、明確な証拠はないからなんとも言えない。誰かそれで論文を書いて欲しい。簡単なところで言えば四年次の学生の男女比とその年の卒業論文の割合とかを大学、学部ごとに漁って数えて比較するとかだろうか。
話を戻すと、上のことでツイッターで、facebookで、時折ポッとその話題が浮かんでは消えることがある。自分が男性ということもあるからか、もしくは専門がビジネスっていう少し毛色の違う専攻だったからか、色々考えさせられることが多い。
大体は共感できることが多い。実現できるかできないかとか、賛成できるかできないかは別としてだ。
ここから話すのは、そうでなかったことだ。
夫婦別姓と同性婚。
この二つは実現できればいいと思うし、あってもいいのかな、位のことは思うけれど、これを推し進めようとする人に対してあまり共感ができなかった。
二つとも、賛成している人はよく、
「私たち(該当者)が幸せになるだけで、別にこの制度があって損をする人はいない」
本当に?
この社会はすでに存在しているルールで回り続けている。歴史と言えるほどの長い時間をかけて、一つの(ある意味での)効率を突き詰めた結果だと思っている。
別に今の女性進出にどうこう言おうとも思っていない。どちらかというとそれに関しては賛成で、今と昔では労働の種類が違う。四大文明の暮らしを引きずって今の今まである社会なんて、そうそうない。
そして、上の二つの考えにも同じことが言える。もし必要だと感じる人がマジョリティに上がるのであれば、むしろそうなるべきだと思うし、ルールに対して個人的な意見を言えば、「あってもいい、どちらかというと賛成かも」程度には思っている。
ただし、これをルールそのものにではなく、その理屈を我が物顔で主張する一部の人間に対しては話が別になってくる。
何が嫌かって、「損をしない」ということだけで自分の意見を押し付けようとすることだ。どこかの国の国会議員?の同性婚のスピーチとかも、あまり好きになれなかった。なぜ、メリットを提示しないのか、なぜ、ツイッターで誰もそれで「当事者」が受けるメリットの有無について考えずに無条件で賛同するのか。「当事者」というのはその法の庇護下にある全ての人間であって、それは決して夫婦別姓を望む人間や同性婚を行いたい人間だけではないはずだ。その社会に属しているすべての人間が当事者である。
例えば、同性婚であれば、結婚式の数も増え、数が増えれば動くお金も増える。そういう些細なことでも、適当なことでもいいから、なぜそういった社会に対して、経済に対して肯定的な要素を掲げず、ただただ「誰かが損をするでしょうか?」なんて舐めたことを抜かすのか。
より多くの人間にとって得であるべきなんじゃないのか。その制度を自分たちが得をするということだけじゃなく、経済的な側面とか具体的、数値的な部分で肯定しようとしないで、否定的な部分がないという理由だけで推してなんとするのか。
変化を嫌う、、、そう言ってもいい。何かを変えるには、それだけのエネルギーがいる。社会であればおそらくはコスト、初期費用にあたる部類だろう。下手をすれば役所で働く人間の動きは変えなければいけないし、書類の書式も変える必要がある。パターンが増えた分ミスの種類も増えるかもしれないし、いろいろな「変化」があると思っている。
少数派が変化を求めるのであれば、それに対して社会に対価を示すべきだ。多数決とはそうあるべきものだし、そうやって考えて欲しい。変化を起こすというのは自分の内的環境だけじゃなく、周りの環境も変えることがある。その逆だってもちろんある。間違えなくそこを考えないといけない。少なくともメリットを提示するべきだ。はっきり言って、上の「誰が損をするでしょうか?」は他人や環境、その変化に対して思慮や配慮が浅い、ぼくの嫌いなぼくみたいな人間だ。ぼくはそんな人間が近くで主張を続ける限り、ルールじゃなく人を見て反対し続けるだろう。
ぼくはいつだって、変化や行動に対価を求める。