後輩がこんな話をしてきた。
「ななばんとらむさん、昨日牛を虐待するな!って豆乳を飲むように勧めたり、牛肉を食べないように!って呼びかけたり、フェイスブックで投稿していたやつがさっきハンバーグ定食食べてました!笑」
ヴィーガン?として積極的にフェイスブックとかツイッターとかで情報を発信している人がいるんだけれど、最近そんな人がコンビニのハンバーグ弁当を美味しそうに食べてるっていう話を後輩がしていた。
もちろん、そのハンバーグの原材料には牛肉が含まれている。そして、その子は決してヴィーガンとしての活動をやめたわけではない。今も元気に投稿している。
僕は笑った。
でも、言葉はなかった。何かを言おうとして、ふと我に返って。なんで今笑ったんだろうか。その子の言動・主義主張と実際の行動が食い違ってたからだろうか?でもそれをどう言葉に表すのだろうか。そこで詰まって「いやワロタ」とかなんとか適当なことを言った気もする。当然のように、話も適当に終わった。
笑った理由は、きっと上の通りなんだろう。でもそこに、道理なんてない。自分だって浪人時自分で生きて行く!って思ってアルバイトを始めたけれど、結局お金もそこそこ、成績もイマイチ上がりきらずアルバイトを途中で断念し、しまいには第一志望の大学には落ちた。大学では、成績を取りに行くとか言いながら、その実必ず一学期に一週間授業をさぼり、自室にこもって何もしなかった。宿題の未提出なんてザラだった。そんな言動と行動が昔から今まで噛み合っていなかった人間が、同じような人間を笑う道理なんてない。理由と同義の噛み合わなさに、どうしようもなく違和感を覚えてしまったのだ。
じゃあ、これがぼくの次につながるのだろうか?
こういう問いかけであれば「この人は一つ学んだんだな、新しい一歩を踏み出したんだ」っていう答えになるかもしれない。
問いを変えよう。
「特に致命的な理由もなくヴィーガンの子がハンバーグを食べたら、君は笑うだろうか?」
いいや、きっと笑う。笑わずにはいられない。
ここまで来ると、自分がこの記事を書いている意味もないんじゃないかとか思ってしまう。それでも考え続けることに意味があって、いつかどこかでまたかつて見た光景に違う印象を抱く日が来るかもしれない。いつかかつて自分ができなかったことができるかもしれない。そう信じながら、頭から言葉を絞ってこの記事を書いてみた。
自分の思考というものは天体みたいなものだって思った。日常も思考も、全部繰り返しながら、くるくる回り続けるのだ。自分にとっての恒星は、多分まだ見つかってなくて、あてもなく自転している。
そのヴィーガンの子は、きっとまたフェイスブックでヴィーガンとしての活動をしながらハンバーグを食べるだろうし、僕もきっと、またハンバーグを食べてるその子の話で笑う。でも僕の笑いは少しだけ小さくなるかもしれない。それが僕にとっての恒星かもしれないと思ったからだ。