現代は科学技術の時代でしょう。
だから、(今はそこまででもないけど、)何か新しい技術が生まれると、人はそれを喜んだ。
テレビだって、鉄道だって、ゲームだって、それだけで一時代を語りうるほど持て囃された。
そういう時代だと、人は、何か新しい技術を欲するようになる。
こういうことは、芸術にも言えて、
文学でも、映画でも、何か技術的に新しいことを行うことを期待される。
そして、新しいものを「面白い」と言って楽しんだ。
文学では、非現実的な設定が好んで用いられるようになったし、映画でも、CG等を用いた革新的でダイナミックな作品が流行った。
そういう作品を「面白い」と人々は語った。
この「面白い」という言葉は、芸術 Art を対象に充てられる言葉というより、娯楽 Amusement、ひいては、興業 Entertainment に対して使うべき範疇の言葉になったのだと思う。
英語で言えば、curious,interestingというより、fun,excitingという意味合いが、この「面白い」の指示するところだと思う。
よって、文学でも、映画でも、
よりワクワクするようなSF・アクション・ファンタジー、
ドラマチックな展開の感動劇・推理物などが、人々の欲するところとなり、
この潮流に従った者が時代に残った。
小津より黒澤が語り継がれた。
今、大きな映画館の上映や本屋の売れ筋を見れば、この潮流は見るに明らかだ。
芸術は気付かぬうちに、
そろそろと娯楽に呑み込まれてきた。
人々のうちにある、「芸術」の概念が、どんどんエンタメに寄って来ていることを危惧する。
科学技術に対して人々が欲するところに従って、
様々な芸術の分野でも、技術的に新しいものが期待され、
期待に従って、アートはエンタメ化している。
それによって、世の中が明るく、楽観的になっていくのは、それはそれで結構なことだ。
だが、こういう事態になると、
芸術や文化に蓄積された思想なり、モラルなり、知恵なり、歴史なり、美的感覚なり、感性なり、
そういうものが、棄てられてしまうのが、
なんとなく恐ろしく感じるのは僕だけであろうか?
この事態がいつか大きな損失になるようなこともあるんじゃないだろうか?
とはいえ、そのアンチテーゼと言うべきか、ポスト現代と呼ぶべきか、
グザヴィエ・ドランが評価されてきたりしているのは、
時代の自然な流れというか、
まあなるようになってくれるんかなぁ〜、
という希望を感じる。
何を言おうがそんなものはどうしようもないので、
時代を見つつ、生きる術を見なばな〜、と感ずる記。