一宮から二宮・三宮を巡る(勝手に)シリーズ第二弾は山梨県・甲斐国としてみた。
(伊賀国 一宮・二宮・三宮巡り)
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コロナ騒動が続き、なかなか遠出がしがたい状況。
こうした状況の中、最近やたらとサウナブームであるが、最近この近くにある健康ランドが大好きでショートトリップに良く出かける。
すると、サウナとお風呂だけではさすがにだらけすぎなので、せっかくならと身体を清めた後に心も清めて神社を参拝しよう、ということにもなるわけだ。
甲斐国は少し面白いところで、所謂「論社」が非常に多い地域。
今回参拝させていただいた「甲斐国一宮・浅間神社」もその一つです。
なお、公式には「あさまじんじゃ」と読むことになおり(当社発行のパンフレット等にもそう記載がある)、よく通称される「せんげんじんじゃ」の読みではない。
なぜ「あさま」なのかもあまりよく分からないらしい。
山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684
第11代垂仁天皇8年(約2000年前)
式内社(名神大)[論社]
旧社格:国幣中社
別表神社
浅間神社
木花開耶姫命 (このはなさくやひめのみこと)
摂社
山宮神社
大山祇命(おおやまつみのかみ)
天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)
末社(境内社)
護国社
七社大神
雨降大神、道祖神、稲荷大神、金刀比羅大神、六所大神、加具土大神、天満宮
神明社
真貞社
伴真貞
第十一代垂仁天皇八年(約二千年前)正月始めて神山の麓にお祀りされた。今ここを山宮神社と称して摂社となっている。
第五十六代清和天皇の貞観七(八六五)年十二月九日木花開耶姫命を現在の地にお遷ししてお祀りされている。甲斐国の一宮(いちのみや)であって延喜の制における名神大社である。明治四年五月十四日国幣中社に列格。本殿は入母屋向拝造銅板葺、拝殿は入母屋唐破風向拝造銅板葺である。境内は三,三九五坪(一ヘクタール余)
『甲斐國一宮 浅間神社』 浅間神社発行リーフレット
起源不詳。社伝に寄れば垂仁天皇八年、現在の山宮の地、神山の麓に鎮祭したことに始まり、貞観六年(八六四)富士山の噴火のあった翌貞観七(八六五)年十二月、伴直眞貞に託宣があったことにより、現在値に社殿を造営山宮より遷座されたと。淳和天皇天長二年(八二五)四月に洪水あり、国司文屋秋津の奏聞により勅使をくだされ、水防の祭祀をおこなわせられ、延喜の制で国内唯一の名神大社とせられる。それより国内の崇敬をあつめ、平安末期に一宮とされ、建久五年(一一九四)鎌倉将軍家により殿舎を修造せられた。
『式内社調査報告 第10巻 東海道5』 P.570より抜粋
※一部旧仮名使いをわかりやすく改めて転記しています。
JR中央本線 山梨市駅よりタクシーで約10分
バスタ新宿から高速バスで甲府方面行きに乗車(約1時間40分) 一宮下車 徒歩10分(800m)
中央自動車道 勝沼ICより5分、「石」信号右折
甲府方面より「一宮浅間神社入口」左折
神社境内に約30台弱分の駐車場が、また、一の鳥居と二の鳥居の間に大きな駐車場あり
冒頭記述したとおり、当社は「延喜式内社(名神大)・甲斐国一宮」の論社とされている。
浅間(あさま・せんげん)神社とは、それすなわち富士山の神様を祀る神社であり、「浅間」の名前を冠した神社は山梨県内に相当数見受けられる。
目線を上に向ければそこには我が国の主峰「富士山」がどーんと鎮座しておられるわけであり、かつ、有史以来何度も大規模な噴火を繰り返した猛々しい火山であるわけであるから、信仰の対象はもちろんのこと、畏れの対象でもあったはずである。
私が過去に参拝しただけでも、河口湖町の「河口浅間神社」、富士吉田市の「北口本宮冨士浅間神社」等、それぞれ一宮といってもおかしくない同名の大神社が甲斐国にはあるわけで、非常に直感的にも論社であるというのがわかりやすい珍しい国である。
この他にも、西八代郡市川に「一宮浅間神社」という同名の神社が論社として存在しているのだ。
少し文献を調べてみた。
『式内社調査報告』によれば、「浅間神社」の説は三説。
(A)東八代郡一宮鎮座(当社)
(B)南都留郡河口湖町河口鎮座 (富士河口湖町の「河口浅間神社」)
(C)西八代郡市川大門町高田鎮座 (西八代郡の「一宮浅間神社」)
それぞれに、「延喜式内・名神大社」と「一宮」、いずれも論社となっている。
まず、『日本三大實録』の中で、貞観6年(864)に富士山噴火に関する記述があり、その翌年貞観7年(つまり、当社創建とされる年)に「甲斐国八代郡に浅間神祠を立てて官社に列した」という記事が出てくる。
以降の解釈が論争になっていて、
(1)八代郡伴眞貞の託宣により、同郡郡家の南に神社を創建し、それを官社とした。
(2)八代郡伴眞貞の託宣により、同郡郡家の南に神社を創建したが、それが神意に叶わず改めて立派な宮を造営し、それを官社とした。
そして、上記1 or 2とは別に山梨郡にもそれと同様神社をつくらせたが、それは官社ではない。
つまり、八代郡の郡家の南につくられた神社が「名神大社 浅間神社」か、それともその後につくられた神社が「名神大社 浅間神社」か、ということ。
(A)説を支持する向きからは、当社の近くには国府があり、郡家の南であることや、昔からこの地は八代郡であった(山梨郡から八代郡に変更された証拠はない)こと、末社として境内に伴眞貞を祀る眞貞社があること。
(B)説をを支持する向きからは、「河口浅間神社」は現在は南都留郡でも昔は八代郡であったし、(A)の当社は山梨郡だったはず。
として、論争になっている、ということである。
私が参考にした『式内社調査報告』では、(A)説、つまり当社を名神大社とみており
(a)都留郡河口湖町(つまり、河口浅間神社鎮座地)が延喜式制定当時「八代郡」とされていた確たる証拠はないし、当社鎮座地が「山梨郡」とされていた確たる証拠もない。
(b)考古学的に見て、(A)の地は条里制より特別な地域・重要な地域とみられていること、それ故国府からも近かったはずで、大社の存在の可能性も高いはず。
(C)『日本三大實録』の解釈について、『特選神名牒』という文書によれば、「一旦社を建てたが、神意に叶わず新たに建立した」という解釈ではなく、「一旦社を建てたが、神意がなお落ち着かなかったので、遣使改めることで落ち着いた」と解釈できるので、郡家の南にある社として当社は妥当する。
(d)甲斐国中で唯一の名神大社が、国府からあまりにも遠い地であるはずがない。
(e)境内に建立の託宣を受けたとされる伴眞貞を祀る眞貞社がある。
をその理由としている。
また、同じく『式内社調査報告』において、「一宮」が当社であったか、についての論考でも、
(a)木村長昌寺所蔵の大般若経の明応年中(1492-1501)の奥書及び当社所蔵の弘治三年(1555)武田晴信條目の2つの文書に当社を一宮と見なす記述があり、その他の社を一宮とする文書はここまで古いものはない。
(b)(C)説の「西八代郡市川 一宮浅間神社」については、甲斐国一宮ではなく、市川郷の一宮である事が明白。(市川郷内に別の二宮がある)
という2つの理由で、当社を「式内(名神大)かつ甲斐国一宮」であることが有力、とジャッジしている。
さて、いろいろ説があるところであるが、さすが論社とはいえ一宮とされてきた大社であり、境内は大変立派できれいに整備されている。
現在の県庁所在地は甲府市であり、周囲はブドウや桃の大きな果樹園に囲まれている。
入口には大きな鳥居と誇らしげな「国幣中社浅間神社」の社名碑があり、境内に入ると拝殿(一宮町指定有形文化財指定)は寛文12年築造の堂々としたもの。
当社の宝物を紹介する境内の案内板によれば、武田信玄が奉納したという「国次の太刀」があるらしい。さすがは甲斐を代表する大社。
また、当社から東南に約2kmの地点に山宮神社という当社の摂社が鎮座しており、この山宮神社は当社の本(元)宮にあたる。
当社境内に「山宮神社遥拝所」が置かれ、元々当社の祭神が「大山祇神」「天孫瓊瓊杵尊」「木花開耶姫命」の三神であったが、富士山噴火鎮護の目的で「木花開耶姫命」が当社に遷されたとの由緒も記されている。
境内北側に「七社大神」が祀られていて、さらにその奥に十二支をかたどった像が並んでいる。お祓い用の「祓門」をくぐって、今年の干支と自分の干支に参拝されたらいかが?
境内社務所にて下付
摂社の山宮神社の御朱印もこちらで頂戴できる。
『山宮神社への行き方』という1枚ものの地図をいただける。参拝希望者は少しわかりにくいので必ず頂戴しておくこと。(社務所の御朱印受付所の脇に置いてある)