前回、沖縄県糸満市与座の「第24師団司令部壕」についてを紹介いたしました。
今回は沖縄戦末期、司令部壕を放棄した第24師団司令部が訪れた最期の場所「クラガー」を紹介します。
沖縄・奄美諸島の防衛にあたった部隊「第32軍」の隷下部隊の一つである第24師団。
1939年、現在の中華人民共和国黒竜江省にある哈爾濱(ハルピン)で編成された部隊です。しばらくは国境の警備する国境警備師団として行動していましたが、1944年8月に沖縄に移駐してきます。
来沖当初は沖縄本島中部の嘉手納に司令部を置き、その周辺で陣地構築や訓練を行っていました。
1944年12月になり、本島南部に置かれていた「第9師団」が台湾に移駐します。
これは1944年から1945年に起こった「フィリピンの戦い」のため、台湾に置かれていた「第10師団」がフィリピンのルソン島に移り、その代替勢力として引き抜かれたものでした。
兵力が大きく削がれた第32軍はそれ以降、沖縄本島南部地域に主力部隊を集め、「戦略的持久戦」に舵を切り始めます。
1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸して地上戦が始まりました。
地形を利用した陣地を上手く使って何とか持ちこたえますが、1945年5月末に第32軍は司令部壕を放棄して南部に撤退、所属部隊の生存兵もなんとか南部地域に撤退しています。
第24師団司令部壕が放棄されたのもこの時期であり、移転先となったのが沖縄県糸満市宇江城に残る「クラガー」でした。
第24師団司令部壕を放棄した第24師団司令部は、司令部壕より少し南にある宇江城集落の「クラガー」という場所に移動しました。この場所で南進してきた米軍より馬乗り攻撃や入口を爆破されるなどの攻撃を受けます。
6月30日、クラガー内において第24師団師団長の「雨宮巽(アマミヤタツミ)」中将と以下将兵が自決したとされています。
第24師団の組織的な戦いは師団長の自決で終了しましたが、隷下の部隊は終戦以降まで戦い続けました。
自然に出来た自然洞穴である「クラガー」は、入口付近から水が湧き出ることから周辺住民の水汲み場として利用されていました。
戦時には日本軍の兵が陣地壕として利用しています。
70センチほどの隙間があったので入ってみます。
10mほど匍匐前進で進んでみると広い空間に出ました。
奥に流れていく水の音だけが壕内に響きます。
泥に埋もれた軍の遺品も置いてありました。
クラガーの真上には慰霊塔と軍旗奉焼之地碑が建立されています。
この慰霊塔は「山雨の塔」と呼ばれ、第24師団の通称号(部隊名を暗号化した呼び名)である「山」と、師団長の雨宮巽中将から「山雨の塔」という名前を命名したようです。
軍旗は部隊が常に持ち歩いた旗ですが、陸海軍を束ねた大元帥でもある「天皇」から親授された物である軍旗は、天皇の分身のように扱われました。
部隊の最期を察して軍旗を燃やすということは、それだけ重大で覚悟のいることだったのです。
仕事の傍ら、日本各地の戦争遺跡・遺構を巡ってます。
黒しばわんこの戦跡ガイド
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