沖縄県糸満市の与座地区にある丘陵地帯にコンクリート遺構が残っています。
この遺構は旧日本軍が構築したトーチカの跡とされ、この遺構から約20mほどの位置に、「第24師団司令部壕」という地下壕も残っているので、関連部隊がこの場所に構築したのだと思われます。
地下壕とトーチカは「交通壕」と呼ばれる、地面を1mほど掘った通路で結ばれています。
この通路を通れば、敵から見つかったり銃弾も当たらずに地下壕まで移動できる訳ですね。
厚さ1.5~2.5メートルのコンクリート壁の内部に機関銃、火砲、高射砲、観測器材を収容し、独立または複数の連繋射撃によって火力の拠点とし、また逆襲攻撃の基点とする。(コトバンクより引用)
上記がトーチカの概要です。
この箱状のコンクリート壁の中に入り、敵の銃弾はコンクリートで回避しつつ、敵を様子見したりこちらからも銃撃を浴びせる役割があります。
形状は太いL字のような形をしています。
遺構内部の広さは、縦約2.5m・横約4m・高さ約1.5mで、人が二人くらいまでなら余裕がある広さです。
遺構の一部に出入り口と思われる穴があり、交通壕へ出ることが出来ます。
現在は匍匐前進でやっと出れるくらいですが、戦中はもっと大きな穴だったのかもしれません。
板で形を造り、鉄筋コンクリートで構築したようです。
表面には板の跡と思われるスジも残っています。
遺構の一部には鉄筋が露出している部分もあります。
戦中からなのか、戦後に露出したのかは不明です。
戦後、1950年に起きた「朝鮮戦争」は低迷していた日本に特需景気をもたらします。
輸出する弾薬を大量生産するので、そこら辺に捨てられた鉄が高く売れるようになったのです。特に沖縄は地上戦が行われ、銃弾などの鉄くずが大量に転がっていたので大人から子供まで鉄くずの採集を行うようになりました。
トーチカや陣地に使用された鉄筋コンクリートも例外でなく、コンクリートを粉砕して中の鉄筋を抜き取られていることもあるようです。
生活に潤いをもたらしたスクラップですが、山や海に捨てられた砲弾を回収中に炸裂して死亡するといった側面もありました。
トーチカ内部には20㎝四方の弾痕跡も見られます。
コンクリートでこの状態なら、人間ならばひとたまりもないですね。