1957年に始まったパンデミックは、スペインかぜのウイルスよりも軽度のウイルスによって発生しました。スペインかぜと比較して、世界はパンデミックに対する準備が整っていました。インフルエンザウイルスに対する知識は急速に進歩しており、さらには細菌性肺炎等の合併症については抗生物質が利用可能という疫学レベルにありました。
2月末に中国の単一の州で感染が始まり、3月に中国全土に広がり、4月中旬に香港に到達しました。5月はじめにはシンガポールに到達しました。
5月中旬にまでにウイルスは日本とシンガポールの研究所によって分離され、WHOによって完全に新しいタイプのウイルスであることが確認されました。
このとき、WHOはラジオ等の電波を通じてパンデミックの発生を世界に警告し、ワクチンを作るために、ウイルスのサンプルを世界中のワクチンメーカーに配布しました。
しかし、ウイルスが香港に到達してから6ヶ月も経たないうちに、世界のすべての地域で症例が発生しました。
ただ、注目すべきは、各国で広がりのパターンが著しく異なっていたことが挙げられます。たとえば日本では、4月末にウイルスが侵入し、6月にピークに達し、7月中旬に消滅しました。これと対照的に、ヨーロッパとアメリカでは、ウイルスが侵入してからパンデミックの前触れであるエピデミックが発生するまでに6週間の猶予がありました。疫学者のあいだでは、この間に「静かな種まき」が起きたと考えられています。エピデミックが遅れた理由は不明なままですが、気候と学校の休暇のタイミングに関連していると考えられました。
ほどなくしてエピデミックが発生すると、罹患率のパターンは世界中で著しく類似していました。スペインかぜと比較すると死者ははるかに少ないものの、第1波では症状が現れたのは学齢期の子供に集中していました。これは、混雑した環境での密接な接触に起因するもので、特定の年齢で脆弱性があったとは考えられていません。
ほとんどの国では1~3ヶ月で第1波が消えた後、第2波が発生し、高齢者を中心として、非常に高い死亡率を記録しました。
このパンデミックでは、世界の死亡者数は200万人以上といわれています。
アジアかぜのワクチンは、アメリカでは8月、イギリスでは10月、日本では11月に入手可能となりました。しかし、その生産量は、広範囲に使用するには少なすぎました。人口全体をカバーするのに充分な生産能力を持っている国はなく、もちろんワクチンを他の場所に輸出することもできませんでした。
検疫措置(いわゆる水際対策)はいくつかの国で適用され、そして効果がないことが判明しました。効果があるとしても、せいぜいエピデミックの発生を数週間から2ヶ月延期することができた程度でした。このとき、WHOの専門家委員会では、一部の国では、国際会議やフェスティバルなどの集会が頻繁に行われ、その参加者が帰国することで感染が分散することを発見しました。このことから、パンデミックを抑える唯一の対策は、集会の禁止と学校の閉鎖であると考えられました。