個人的に勉強という言葉自体は嫌いではないが、小学校・中学校・高校と進むにつれて、この授業を受けるくらいなら違う勉強をやったほうが有効な時間の使い方なのではと考えることが増えるようになったと思う。今回は「古文と漢文は必要ない」という主張を述べていきたい。
「古文と漢文は必要ない」というのは高校の授業を受けてきて感じたことだ。勉強とは現代における有用性を追求し続けるものであるべきということを考えていることではないが、それでも古文漢文は中学高校の勉強として取り入れるべきではないと思う。現在の高校では週に2~3授業(150分)くらいその勉強に時間を費やしている(受験に使う人はもっと!)。しかし、実際にこの時間はどのようにして私たちの人生に影響しているのかと考える。古文漢文の授業では、1000年前の日本文献を読むがこれが生徒の心に響くことや人生でためになったと感じる割合はほぼ0に等しいのではないか?英語もまともに会話できないまま、使うことのない古文漢文の文法に時間を裂き、挙句の果てにそんなに古文漢文を読めないまま高校を卒業していく。プログラミング、経済学などもっと学ぶべきことはある。
私は古文漢文は上記の理由で必要ないと考える。ここでしっかりとこれまでこの意見を発して、喰らってきた反論に対する意見も置いておきたい。
1.「古文漢文は教養だ」
ここで教養とは一体何を指すのだろうか。辞書には『教養とは勉強によって得られる豊かな感情』のように記されているが(だいたいこんな感じ)、古文と漢文によって得られる豊かな感情とは一体...?と感じる。現代の小説や本を読んでも同じことが言えると思うため、古文漢文の文法を学ぶ時間をそのような本を読む時間に費やしたほうがいいのではないか。
また同時に教養を「みんなが知っておくべきこと事柄」と考えている人もいる。しかしこれは時代によって変わるものなので古文漢文より知っておくべき事柄が変わってきていることを自覚するべきだと思う。古文漢文をやらされてきた私にとっては、大人が古文漢文を勉強してきたから次の世代にも同じことをしてほしいだけなのでは?という疑問を抱いてしまう。
教養を強要するな!って言いたい(笑えない)
2.「日本の文化を知っておけ!」
古文漢文を学ぶことによって日本の文化を知ることができると考え、グローバル時代にはこの自国を意識する必要があるということだ。これに対して僕は、日本の文化を学ぶのに古文漢文である必要性はなく歴史を学ぶことが大切なのではないかと考える。学校では単語の暗記にかなりフォーカスされた授業となっているが、それがそもそも間違っており文化や自国の文化を知るためには歴史を把握する能力を育てることが一番必要なのではないか。その上で歴史的文献を学びたいと思った人がそこで初めて古文漢文の勉強を始めれば良い。
3.「古文漢文は面白いじゃん」
面白くないか面白いかは議論できないので・・・
以上が私が古文漢文を勉強する上で疑問に思いあまり古文漢文を勉強してこなかった理由だ。古文漢文が嫌いというわけではないので、良さをもっと私に伝えてくれる方がいたらありがたい。