起雲閣の特に見どころと言える部屋を見て
様式ミックスの部屋に驚き、これ、どういう人が何を目指してこのような感じにしたんだろうなどと思いつつ、進んでいったのだが、とにかく広い。
渡り廊下を通っている時、よその古い旅館を思い出した。
起雲閣は、旅館時代があるわけだが、通り道っぽい部分は、ほんと、他にもありそうな普通の、古い旅館の廊下と変わらないので、それがまた不思議な感じした。
今は市の文化財になっていて、NPO法人が管理していて、変に格好つけてないからかもしれない。
渡り廊下の途中のスペースに、根津嘉一郎さんが石が大好きだったことや、石を運んだ時のエピソードについて紹介されていて、人柄や当時の様子がよく分かって面白かった。
70~80個、50~60個、70~80個・・・・200個以上の石wどうやって選んでたんだろう?!
20トンの石を運ぶのに、交通渋滞引き起こしたとかいった新聞記事もあったり。
ちょっと歩いて次に入った部屋は、今も続く、日本の旅館そのものといった感じの部屋だった。
そこに誰が泊ったとか、誰のお気に入りで、その人が何を書いたかとか書かれていたり、資料があった。
この写真を見て、気になったのは、
足元・・・洋服、靴下に、下駄?旅館の庭用の下駄かしら。
写真撮った人も気になったらしい。が、三人とも忙しいから、やっとそろって写真撮れるって時に、足元についてこだわっている余地なしだった模様。
志賀直哉(中央)って、教科書とかに出てる写真は酷いの多い気がする。
日本式の旅館の形って、この頃すでに決まっていたのか、当時モデルとなった旅館があったのかなぁ。
椅子の後ろに、三面鏡があるのが気になった。化粧台ではなく、独立した三面鏡で、他の部屋にも同じ位置にあった。
部屋ごとに、明るい色の壁。
普通の旅館では、壁の色は茶色っぽいことが多いから、赤とか青とか、明るい色はまた雰囲気が変わっていいし、結構合うもんだなと感心。
尾崎紅葉は起雲閣には泊っていないようだが、尾崎紅葉の新聞連載小説、「金色夜叉」のおかげで、熱海が全国に知られるようになったそう。
それにしても、この、ポスターに書いてある観劇料金、当時としてはかなり高いのでは、、、?
再び、洋風の部屋。1929年に根津嘉一郎によって建てられた部分。
床が優しい風合いのタイル張り。
どこか遠い、避暑地の別荘みたいだな
ここに来たら、独自の心地よい世界がある、そう思わせる旅館だったのだろうなと思いながら、説明文を読んでいたら、訪れた文人が喜んだことの一つとして、ローマ風浴室とあった。
ローマ風浴室?どこ?ここ?床がタイルだけど・・・と思いながら進むと
え?なんか先、暗いんだけど、ここ入っていいのかな・・・
いきなりこれ。
広いし唐突でびっくり・・・
・・・湯煙で外からは見えないのかな。笑
向かい合わせで座るのだろうか。
蛇口もレトロ感!
確かにこの浴室は、今だって、インパクト大だ。
この隣の部屋は一般人が借りられるような展示室があり、その隣には、また
旧大浴場。割と深い。
まただいぶ進んで、孔雀の間。
舟橋聖一がお気に入りだったとあるが、自分はその作家、知らなかった。
これで大体、建物見学は終了。
この奥の大きな石が、噂の20トンの石だろう。
たくましい感じの石だな。
庭を撮ってみたが、いまいち!・・・後ろに普通の建物が入るからか!
・・・・(普通の建物が入らないようにしてみたところ)。
なんか斜めってるし。写真。
縁側の下にも巨大な石。
確かにアクセントになってるな。
やっと見終わった。
午後三時過ぎ。
起雲閣については、熱海市のホームページが詳しいし、読みやすい。
部屋の説明も分かりやすかった(今、知った。)。