腹ごしらえ完了し、早速、鞆の浦観光を始める。
鞆の浦と言うと、自分の母は「万葉のころからの潮待ちの港」といったことを言っていたが、一般的に、ポニョゆかりの土地としても知られるとか?
夕方には、福山に戻る予定なのに、行きたいところは結構あって、どうなることやら。
仙酔島への船の乗り場の前を通った。
仙酔島は、今回、特に行きたいところなので、後で行く。
坂本龍馬関係のこともガイドブックやパンフレットに書かれていたが、
土佐海援隊を指揮していた坂本龍馬は海運業をしており、1867年、伊予大洲藩から借りた蒸気船「いろは丸」で長崎から大阪に向けて航海中、瀬戸内海、岡山周辺で、紀州藩の軍艦「明光丸」に2度も衝突され、沈没させられたそうで。
そこから近かった鞆の浦で損害賠償交渉をしたというわけで、鞆の浦が関係ある。
いろは丸には、鉄砲や金塊を積んでたのにどうしてくれる!と、龍馬は紀州藩に賠償金要求したが、話し合いはすぐまとまらず。長崎に場所を移して、結局、龍馬は、紀州藩から7万両を受け取ったそう(計算してみたが、ゼロ多すぎ)。
鞆の浦沖にはまだいろは丸沈んでいるらしい。
(朝日新聞出版「大人絶景旅 宮島・広島・尾道・倉敷」参考。)
地図いくつか貰ったのに、どれも説明多い割には地図が分かりにくく、イラストでおしゃれな感じにした地図も、細かい道が適当なもんだから、目的地への道がこれでいいのかわかりにくい。
こっちかなぁと歩くが、ここで、なんで、スマホを使わないのかと言われそうだが、
自分は基本的に、地図をもとに歩く。
スマホ見ながら歩くと、気分が落ち着かず、しかも周りの風景が、スマホ見ながら見る、という感じになってしまう。スマホ配分多めということ。
スマホの案内をもとに歩くことに慣れてないからだと思うが。
ああ、旅先~旅に出てるな~って感じの景色が現れた。
海の香りは特にしない。そういう海って、自分の中ではきれいな海。
子供のころ、三浦半島など近場の海に魚釣りに行く親に連れられて行った時の海の匂いとは違う。
この道に出ちゃっていいのか?あれ?どっか曲がり損ねた?などと思いながら他の道に入っていくと、なんとなく目的地に着いた。
福禅寺対潮楼は、ガイドブックなどで見たら、ここ行きたい!と思うような素敵な写真が載っている。
畳の部屋の中にいるままに、海を見下ろせるような写真だ。
柱が額のように、風景を切り取っている写真。
しかし、着いた福禅寺は、
なんか地味と言うか、周りも殺風景と言うか・・・
受付から先が奥行きがあって、奥の端が、ガイドブックなどで見た風景のポジション。
その日は風が冷たく、じっとくつろいで風景を楽しむ気分には寒すぎた。
受け付けのおばちゃんも、今日は風が冷たくて、と言っていた。
空もすっきり晴れてはいないので、絶景!な写真にならなかったし、想像していたより地味だった。
ちなみに、ここ対潮楼は福禅寺にくっついてる客殿で、1960年(江戸時代元禄年間)ごろに朝鮮通信使をもてなすために作られた。国の史跡に登録されている。
右下に、さっき通ってきた仙酔島への船着き場も見える。
ベランダっぽい位置から手前の広い部屋には、お土産用のキーホルダーだのお守りだのも様々売られていたが、朝鮮通信使の団体が来た時の様子を伝える模型や、資料も展示されていた。
朝鮮通信使は、500人近くいて、それに対馬藩の案内や警護の1500人を加えて、2000人の団体様!
鞆の浦の町に2000人・・・・もてなす方も大変だっただろうが、この対潮楼は、李氏も気に入って絶賛したそう。
上手い位置が見つからない・・・
対潮楼の手前の方、福禅寺について中の写真撮り忘れたが、この寺もなかなかユニークで・・・密教っぽさが濃かった。
とりあえず、ひとつめの見どころを見たので、鞆の浦歩きの続き、始める。
静かな小道で時折出会うのは明らかに観光客ばかりだった。
キューピーの新郎新婦!
衣装、手作りかな・・・
造花の花瓶の「酔心」・・・なぜこれを。
人がいないと思ったら、たまに観光客の二人連れが視界に入る。
カップル、女性同士、家族連れなど、おとなしい感じの観光客が、ふらふら~っと散歩していた。
古いままの町並みが、そのまま続けて使われている感じが、わざとらしさがなくていい。
平和~。
(続く)