では、正史の観点から、東三河地域に残る様々な伝承を整理してみたい。日本の正史としては、日本書紀から始まる六国史が存在するが、その中で三河地域が最初に大きくクローズアップされるのは、六国史の二つ目に数えられる続日本紀の最初に出てくる持統上皇の三河行幸についての話だ。持統上皇は、三河に多くの伝承を伝える文武天皇の祖母に当たり、その文武天皇が即位するまで後見役として大きな役割を果たしたこともあり、そこからひも解いてゆきたい。
まず持統上皇とは、天智天皇の娘で天武天皇の后という、日本の古代史上の二人の偉大な天皇と深いつながりを持った人物であった。その立場から、天智天皇の死後に起こった壬申の乱では、その当事者である叔父で夫の大海人皇子と弟の大友皇子の双方との関係から複雑な立場であったが、夫を支え天武政権の確立に寄与し、その没後称制を経て天皇として即位し、孫である文武天皇が成年に達するまで帝を務め、その後退位して上皇となった。彼女の統治した時代は、中央集権が急激に進んだ時代であり、それを象徴するかのように飛鳥浄御原宮、藤原京、そして没後の平城京と、次第に宮城が大型化した。また、彼女の統治下で飛鳥浄御原令が公布されて律令国家の基礎が固められ、彼女の統治前後に富本銭という貨幣が導入されたとも考えられており、法、経済の両面で制度の統一化が図られていた。その激動の時代のかじ取りをしたのが持統天皇であり、その後5代で3人の女帝を輩出した女帝の時代である奈良時代への道を開いた存在であるといえる。
その持統上皇が成年した文武天皇に譲位した後、最後の行幸先として選んだのが三河である。上皇は、その晩年である、大宝2(702)年10月から11月の約45日間かけて、最後の行幸として三河行幸を行い、帰京後わずか1か月で逝去した。その行幸について、正史である続日本紀には、三河へ行幸した、ということ以外の詳細は何も書かれておらず、その解釈が三河史において大きな意味を持っているので論争はあるが、まだ明確な結論は出ていない。東三河地域にはその行幸にかかわる伝承が、豊川市の御津地域を中心にいくつか残されているので、まずそれらを紹介する。
その後に、持統天皇の孫で、持統上皇行幸当時の天皇でもある文武天皇に関わる話を集めてみた。この文武天皇は持統上皇三河行幸の前に二度病気にかかっているが、東三河に残る話の多くは、この文武天皇の病気平癒にかかわるもので、その話が竹取物語と関わりがありそうなので、まとめてみた。
ここもまた東三河に関わる細かい話になるので、有料とさせていただきます。約3,600字です。持統上皇三河行幸に関わるとされる万葉集収録の二首についての独自解釈も含まれていますので、ご興味があればぜひご覧ください。結論だけは以下の様に書いておきます。
令和元年11月1日
やはり有料取りやめます。長くて細かい内容ですが、読んでいただけたら幸いです。
これらをつなぎ合わせた全体像はどのようなものになるか、ということであるが、まず、持統上皇三河行幸が事実であるのならば、その背景には、その前に病気がちであったとされる文武天皇の存在がありそうだ。地域に残る伝承によると、持統天皇よりもむしろ文武天皇が三河星野宮にしばらく滞在し、その間に東三河の女性との間に男子をもうけたようだ。のちに文武天皇、あるいはその男子が病気となり、その病気平癒の願いをかけて、利修仙人又は勝岳仙人を呼ぶために草鹿砥公宣を使者として鳳来寺山あるいは石巻山に送り、その仙人の力によって病気は平癒し、その仙人にゆかりある女子が都に行って皇后となったかもしれない。それは光明皇后かも知れないし、時期的には藤原宮子である可能性もある。これらの話がパッチワーク的に組み合わさって、そしてほかの地域の伝承も加わって、竹取物語の原型となったのではないかと想像される。
もう少し飛躍させれば、竹取物語とは、文武天皇の恋煩い、つまりお后選びの話であり、五人の貴公子の話は、五派の豪族グループが后を文武天皇の元に送り込み、外戚になろうとした話なのではないか、とも考えられる。実際に文武天皇の后は初の民間からの女性とされる藤原宮子であり、そこから藤原氏の勢力拡大が始まっている。この解釈についてはまた次回膨らませてみたい。
こうしてみて分かるように、竹取物語という著名な物語に、ここまで強い関連性がある伝承を多く残している地はおそらく他にはないと思えるほどに、東三河地域には豊富な伝承が残っている。これは東三河に限らず全国で言えることだと思うが、正史にないから、という理由のみで退けられてきた地域の伝承にもっと自信をもってそこから解釈を広げると、歴史の別の面に光が当たるのかもしれない。
持統上皇との関わりでは、まず、御津町の引馬神社が挙げられる。そこが持統上皇とかかわるとされるのは、日本最古の和歌集である万葉集に、持統上皇三河行幸に関して地名が織り込まれた二首が収められており、そのうちの一首に引馬野という地名が出てくるからだ。その地名は遠州説と三河説があるが、それらをこの二首を詳細に見ることから検討してみたい。
引馬野が出てくる一つ目の歌は、長忌寸奥麿(ながのいみきおくまろ)によるものだ。
「引馬野に にほふ榛原 入り乱り 衣にほはせ たびのしるしに」
ここには、引馬野とともに、榛原という遠州地域にある榛原郡とつながる地名ともとれる語も出てくる。榛とはハンノキの事であり、これは、湿地帯で森林を形成する珍しい樹木である。低湿地という点では、音羽川河口域の御津周辺とも、あるいは大井川河口域の榛原郡であるともどちらともとることができる。「にほふ」は、榛つまりハンノキが染料に使われることから、香ると染めるがかかる。「にほ」はカイツブリの意味もあり、黒褐色のその鳥と褐色の染料に使うハンノキを色彩的にかけていそう。「衣にほはせ」の部分も染めるの意味がかかっており、次の「たびのしるしに」と考え合わせると、衣を織っており、それが土産にもなりうる産地であると考えられる。大井川河口域の島田にも秦氏にかかわる式内社として敬満神社があるが、東三河地域には服織神社、犬頭神社などをはじめ砥鹿神社の由来にかかわる衣の話など、衣にかかわる伝承は数多い。又絹の道についても論じられており(1)、これらのことから、この句については東三河地域についての句ではないかと考えられる。
もう一つの句は高市連黒人によるものだ。
「いづくにか 舟泊(は)てすらむ 阿礼の崎 漕ぎ廻(た)み行きし 棚なし小舟」
こちらには阿礼の崎という言葉が出てきて、それが新居であるとして遠州浜名湖周辺に比定されることもある(2)。ただ、浜名湖の今切が切れたのは室町時代の明応7(1498)年の明応地震であるとされ(3)、万葉集当時新居は岬ではなかったと考えられるので、この説は疑問が残る。そこで歌を見てみると、まず「いづくに」は、どこにと伊豆国がかかっているようにも感じられる。それに関して、石巻神社には文武天皇の息子である武兒親王の従者として出日子(いずひこ)という名前が伝わっている。「はて」は泊まると果てるの掛詞であると考えられ、また、「たみ」はまわると民がかかっていると思われる。棚というのは文字通りでは船棚ということになるが、たなというのは和語の発音であると考えられ、それは七夕、店を意味するタナ、棚田など幅広い意味に使われ、和語において重要な意味を持っていたと思われる。特に七夕においては機織りを意味することもあり、手仕事、あるいはその道具のような意味があったのでは、と考えられる。つまり、全体として、「伊豆の国の方のどこかで船は泊まってあるいは果ててしまったのだろうか、阿礼の崎を人々が漕ぎまわっていってしまった、道具も持たない小さな船で」と解釈できることになり、そうなると阿礼の崎は御前崎の辺りであるとも考えられる。
このように、これら二首は遠州、三河どちらということはなく、もっと広域にわたる話の一部を切り取ったものである可能性がある。これらが持統三河行幸とかかわる歌であるという記述が正しいのならば、この45日間に何があったのかを考える手掛かりになりそう。いずれにしても、その三河行幸が日本史において大きな意味を持ったものであった可能性は高く、その何らかの動乱の原因、あるいは結果として、かぐや姫に象徴される、文武天皇の后探し、という話があったのかもしれない。
続いて同じく御津町の持統上皇行在所伝承地がある。これは持統上皇の行在所(外出時の仮の御所)があったと伝わる場所であり、その周辺には、宮浦・御所・膳田・都などの字名が残っている。かつてここにあったという御所宮は、現在は佐脇神社境内で五社宮として祀られている(4)。
御津から北西方向にある宮路山の山頂には、持統上皇の訪問を顕彰した聖跡碑があるが、これは大正時代に建てられたものであり、史実とのかかわりは不明である。なお、宮路山の麓の宮道天神社には、持統天皇の息子で文武天皇の父である草壁皇子が祀られている(4)。
さて、ここからは、持統天皇の孫で、持統上皇行幸当時の天皇でもある文武天皇の話に移りたい。この文武天皇は持統上皇三河行幸の前に二度病気にかかっているが、東三河に残る話の多くは、この文武天皇の病気平癒にかかわるもので、それに力を尽くしたのが、鳳来寺開山利修仙人あるいは勝岳仙人と呼ばれる人物である。
では、大宝年中(701-704)の創建である新城市の鳳来寺の伝承から見てみたい。竹取物語にかかわる部分はすでに述べたが、それ以外の文武天皇の病気平癒に直接かかわる部分として、天皇が悪夢を感じられたので、草鹿砥公宜を勅使として鳳来寺山の利修仙人を召し、仙人は鳳凰に乗って参内し、17日間の加持祈祷で天皇の病気を治したという伝承がある(5)。
その勅使として送られた草鹿砥公宜公と深くかかわるのが祭神を大己貴命とする豊川市の砥鹿神社で、創建は不詳、文献初出は嘉祥三年(850)だが、その縁起によると、大宝年中に天皇が病気になられ、夢のお告げに従い設楽郡煙巌山の勝岳仙人を迎えにが遣わされ、その途中の本宮山で会った老翁が川に流した着衣の一部を公宜公が拾い上げた場所が砥鹿神社里宮となった(6)、とされる。
勅使が途中泊ったと伝わるのが、豊川市篠束の医王寺で、大宝元年(701)創建とされる。文武天皇が病気で悩んでいた時、勝岳山の仙人なら治すことができるということで、勅使が派遣され、その時に1泊したのが、この医王寺のある篠束の地だとされ、病気が快復した天皇は、その地に伽藍を建立し、薬師如来を安置、天牛山医王寺と称すよう命じた。実際に、ここでは国分寺よりも古い瓦が出土しており、古くから寺院があったのは間違いなさそう(4)。
先に述べた通り、新城市の長篠にも医王寺が存在し、現在の曹洞宗堂宇は、永正11年(1514)開創とされるが、元は、利修仙人によって鳳来寺が開かれたしばらく後に、仙人が鳳来寺山の杉を使って彫ったといわれる薬師如来を本尊として開かれたとされ、後真言宗寺院となったが、その後さびれていたといい、この利修仙人の薬師如来と行基菩薩の阿弥陀如来が安置されていたと伝わる(7)。
このように、東三河地域では薬師信仰が根強い。豊橋市牛川の正円寺は大宝2年文武天皇の勅願により創立と伝わるが、もとは神鎮山瑠璃光院荘園寺とされ、本尊の薬師如来が利修仙人作と伝わっている(8)。新城市の林光寺は創建等不詳で現在は廃寺となってしまったが、かつて立派な薬師如来像座像があり、それはもともと林光寺の本山でこちらも廃寺である大脇寺の本尊だったとされる。伝説によると、あすなろの大木を二分して、根元の部分がこの薬師如来像(姉)、先の方が鳳来寺山の薬師如来像(妹・焼失)になったとされる(9)。
文武天皇の伝承に戻ると、大宝年中(701-704)創建とされる豊川市の三明寺に伝わる伝承では、文武天皇星野宮行幸の折、お悩みが深くなられると、その夢枕に容姿麗しく天衣をまとった女性が手に宝珠を持って現れ、夢から覚めると病が平癒したので、天皇は大和橘寺の覚淵を開基とし、当寺院を建立、三蔵を安置したことから三明寺と号したとされる(4)。
実は、文武天皇病気平癒祈願の話は豊橋市の石巻神社にも残っている。創建は不明だが、文武天皇の時代に雨乞いの場所だったことに始まると伝わり、それにかかわるかどうかはわからないが、石巻山のふもとの下条地区比咩天神社には雨乞いの面が伝わっている。大己貴命が祭神とされるが、文武天皇、あるいはその若宮武兒親王とする説もあり、伝説によると、大宝2年に下条星野の里に居られた文武天皇が勅命にてその平癒を石巻の神にご祈願され、神主が37日間祈祷を行い、天皇は平癒され、その縁があって、天皇崩御の時石巻の神の勅願があり、文武天皇を本社に配詞したという(8)。
武兒親王の話はすでに述べたが、豊橋市下条の正楽院にも文武天皇の皇子の話が伝わっている。創建は不明で、開基は江戸時代の人物であるが、境内に文武天皇の子とされる竹内王子の墓とされる石塔がある(ただし、室町時代のものとされる)。文武天皇が東征中に三河の星野邑に三か年皇居を置き、その間に竹内王子が生まれたが、すぐに亡くなったので、そこに五輪の石塔を作る、と伝わる。その脇には、先に述べた皇子に殉じたとされる12人の后のものとされる石塔も並んでいる。また、藤原公宜はこの皇子の病気を治すために鳳来寺に送られたと伝わっている(8)。
参考文献
1. 大林卯一良. 三河 絹の道. 豊橋 : 東海日日新聞社, 1992.
2. 御津町史編さん委員会. 御津町史 本文編. 名古屋 : 御津町, 1990.
3. 新居町史編さん委員会. 新居町誌 第三巻 風土篇. 新居町 : 新居町, 1985.
4. 豊川市教育委員会. 新版豊川の歴史散歩. 豊橋 : 豊川市, 2013.
5. 鳳来町教育委員会. 鳳来町誌 鳳来寺山編. 豊橋市 : 愛知県南設楽郡鳳来町, 2006.
6. 三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起.
7. 医王寺護持会. 医王寺誌. 新城 : 医王寺護持会, 2007.
8. 愛知県八名郡役所. 八名郡誌. 新城 : 愛知県八名郡役所, 1926.
9. 東三高校日本史研究会. 東三河の歴史. 豊橋 : 三宝堂印刷所, 1983.