さて、こうして昭和33年4月にグラマンの採用が一旦決まった。戦闘機の技術的な話はちょっと素人の手には負いかねるので、その是非は一旦措く。結論的には、ロッキードには実績がある一方で、グラマンはまだこれから開発する、という中で、国防会議主導でグラマンに決まっていったようだ。グラマン選定によって、グラマンの株価が急騰する、ということもあったらしい。グラマンというのは、伝統的に米国海軍と非常に繋がりの深い会社であり、1929年に設立されたのだが、ちょうどその頃アメリカ大使館付武官補佐官として務めていたのが、FX第2次調査団長として昭和33年1月に渡米した佐薙空幕長であった。佐薙はアメリカ大使館付武官補佐官の前には霞ヶ浦海軍航空隊教官を務めており、その点でアメリカにいた時に作られた海軍に近い航空機メーカーのグラマンとは何らかの接触があった可能性がある。そんな佐薙がグラマンを薦める報告書を書いたというのも故なきことではないのだろう。アメリカの飛行機メーカーの歴史もいろいろと興味深い示唆を与えてくれるのだが、ここではここまでに止めておく。
ここで、グラマンの代理店が伊藤忠であったとされるが、それはないだろう。後の第3次FX問題、いわゆるダグラス・グラマン事件で、グラマンの代理店は日商岩井であり、日商岩井の海部八郎は日商時代からずっと航空機に携わっているとされるので、合併以前の日商時代からグラマンの商権を持っていたと考えるのが自然だろう。とは言っても、グラマンはほとんどが軍関係の飛行機で、水上機は多少あるが、商権と言えるほどのものがそもそもあったのかと言うこと自体に疑問がある。グラマンはあくまでも佐薙の線であると考えるべきで、商社主導の話ではないのではないか。尤も、海部八郎は米国日商の駐在員もつとめていたということで、ノースアメリカンF-100の替わりとして、海軍出身の佐薙の琴線に触れるようなグラマンを提案したという可能性はある。佐薙としても、現場最高官として、ロッキード一択で報告するわけにも行かず、一応グラマンとの併記としたら、それがグラマン内定のきっかけとなってしまったのかも知れない。一方でFX第2次調査団の派遣とほぼ同時に伊藤忠入りした瀬島龍三は陸軍出身であり、海軍系のグラマンとつながりがあるとは思えない。そして、伊藤忠自体は元が繊維商社であり、戦前から世界で大暴れしていた鈴木商店の後継である日商ほどの知名度が海外であったとは思えない。つまり、伊藤忠からグラマンにつながる線というのは、細い、というか、ほとんど無きに等しいのだ。
ではなぜそれが伊藤忠という話になったのか。それは、実はロッキードの代理店が第一物産から伊藤忠に替わったからなのであろう。それはどういうことかといえば、現場レベルではおそらくロッキードでほぼ決まっていたのにもかかわらず、それを一旦グラマンに切り替えて、またロッキードに戻す、という不自然な動きの中で、代理店が切り替わった可能性が考えられるのだ。ライセンス生産の先は、ロッキードが採用されると、前回書いたとおりT33を受け持っていた川崎航空機になる可能性が非常に高かった。それを外して三菱重工に切り替えるためには、代理店から切り替える必要があった。つまり、ロッキードの代理店が第一物産だったというよりも、川崎航空機の代理店が第一物産だったと考えるべきなのだろう。戦前からあった神戸川崎財閥は神戸川崎銀行という銀行を持っており、それが十五銀行に合併され、第一銀行、帝国銀行を経て三井銀行になっている。そして、これは由来が不明なのだが、十五銀行は「桜の銀行」と呼ばれていたとされ、その為に桜の紋章が帝国銀行、三井銀行にも引き継がれ、結局さくら銀行という銀行名にまでつながってゆく。つまり、三井銀行にとって十五銀行というのは何かしら重要な意味を持っていたと考えられ、その源流の一つである神戸川崎財閥の川崎航空機を切るという選択肢は、三井系の第一物産にはなかったのかも知れない。それで、ライセンス生産先の変更が第一物産に伝えられたことで、第一物産はそれを断り、その隙に伊藤忠が入り込んで契約切り替えとなったのかもしれない。実はこれはもっと広がりがありそうで、グラマンがFX商戦に参入したのは、第一物産と三井物産が合同して新生三井物産が出来たのとほぼ同じ時期となる。三井物産の合同というのもいろいろと難しいことがあるのだが、ここで考えたいのが、神戸に拠点を持っていた鈴木商店が昭和恐慌で営業できなくなった時、その人材の多くが三井系に流れたという話がある。一方で、公式には鈴木商店の後継企業は日商であるとされている。その日商がグラマンの商権を持って、新生三井物産が出来た時にFX商戦に参入しているというのは、日商が鈴木商店の後継の座を三井から奪い取ったということを意味しているのではないか、と考えられるのだ。その点で、同じく神戸の名門企業である川崎航空機からライセンス契約を奪い取って新三菱に切り替えるというのも、重要な目的だったかも知れない。このあたりは、実は日商の中にも主導権争いがあったのではないかと考えられ、さらには三菱の絡んだ話なのに三菱商事の名前が出てこないなど、商社の歴史を正確に捉えるためには解明する必要がありそうだが、とりあえずはここまでにしておく。
航空自衛隊の現場レベルで考えれば、導入が6年先ともいわれるグラマンという選択肢は最初からなく、その意味でこの契約切り替えは、最初から茶番劇のようなものだったのではないかと考えられる。そしてそれがまたロッキードに切り替わる一年半余りの間に、瀬島龍三の人脈でロッキード、三菱重工、防衛庁のラインを作り直すことで、再度ロッキードに切り替わったと言うことではないか。しかしながら、ライセンス生産先変更のために偽装契約を結んだ、という事になると余りに聞こえが悪い。そこで、この構図を一つずらすことで、実体をわかりにくくしたのではないか。つまり、日商の代わりに伊藤忠がグラマンの契約を取ったことにし、そしてロッキードは伊藤忠の兄弟会社である丸紅がとる、ということにしたと考えられるのだ。そうすることによって、日商は汚職リスクを伊藤忠に振りながら、グラマンとの契約関係を確保できる。実際それで第3次FXではグラマンの代理店になって商戦に参加している訳だから、それは一つうまくいったと言えるのだろう。もっと大きいのは、グラマンで名を売ったことによって、おそらく747以降ではないかと思うが、ボーイングの代理店として、航空機の取扱については商社の中でも随一の立場を築きあげたことだろう。ロッキード事件とは、その観点で見ると、三井物産のダグラスの時代から、日商岩井のボーイングの時代への切り替えの契機となり、それによって日商岩井が鈴木商店の後継商社の地位を確保した、商社についてのエポックだったと言えるのかも知れない。
一方で伊藤忠は瀬島の入社がロッキードの契約と直結していないというアリバイを作ることが出来、かつ実質的な契約は、別動部隊である丸紅が取ることで、実も得ることが出来た。実際のところ、伊藤忠の得たメリットというのはそんなものではない。瀬島龍三という人物は、大本営参謀を長きに亘って務めながら、最終的には関東軍所属で終戦を迎え、ソ連に抑留されてシベリア送りとなっている。その上で、東京裁判においては証人として出廷し、旧日本軍の戦略を、ソ連の戦後戦略にあわせるような形で証言している。そのこと自体が、満州国の実体を非常にわかりにくくし、そして結果的には事実上それを中国に無条件で引き渡すということにつながったのだと言える。そんなことがあり、日中国交正常化に先だって、47年3月に伊藤忠は中国の指定友好商社の第一号となり、そこから中国貿易を中心にして一流商社への階段を駆け上がってゆく事になるのだ。そんなことから、商社の中では、第1次FXからロッキード事件にかけて、一番の受益者であったのは、伊藤忠であると考えられるのだ。
参考文献
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
「瀬島龍三 参謀の昭和史」 保阪正康 文芸春秋
「児玉誉士夫 巨魁の昭和史」 有馬哲夫 文芸春秋
【院名】衆議院 【開催日付】昭和33年8月22日から昭和33年10月31日まで 【国会回次】第29回から第30回まで 【会議名】決算委員会
*一応関係会議を列挙しましたが、実は私自身全部は読みこなしていません。少し読めば、どれだけひどい状況で機種選定が行われたかわかると思いますので、少し見て頂くと雰囲気がわかると思います。時間がとれればもう少ししっかり読み込んで、また何かわかれば追加で書くかも知れません。
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