では、ロッキード事件に関わる人物で、「内務省を復活させなければ死ぬに死ねない」と言ったともされる後藤田正晴という人物についてみることで、旧内務省とロッキード事件との関わりをもう少し見てみたい。
後藤田は田中内閣で官房副長官を務めていた。警察庁長官から内閣官房副長官というのはかなり異例なことであり、池田政権、佐藤政権でかなり長きに亘って官房副長官を務めていた細谷喜一、石岡實の両氏は、後藤田とは違って戦前、戦中含めて警察畑一本だったが、長官まではいっておらず、それに比べると、後藤田はどうも最初から政治家含みでの警察庁長官からの官房副長官就任であったように見受けられる。そうなると、それ以前から田中とは接点があり、その上での抜擢となるのだろう。ではどの段階でつながりができたのだろうか。このあたりを辿っていこうとすると、後藤田のキャリアが嘘にまみれていることが見えてくる。
戦後内務省に復職して神奈川県の課長、本省に戻って事務官、警視庁に行っていきなり課長、内務省廃止後は警察庁所属とあるが、警察庁ができたのは内務省廃止後7年経ってからの昭和29年なので、これはさすがにWikipediaの記述間違いであろう。しかし、24年3月7日、東京警察管区本部刑事部長というのには出典があるようなので、内務省がなくなってから国家地方警察本部に行ったという話は作っているようだ。しかしながら東京警察管区本部刑事部長というのはかなりの上級職であり、ほぼ並行して出てくる警視庁の課長レベルとは大きな違いがある。そうなると、内務省から国家地方警察本部に行ったという話は後から作られた話である可能性が高い。だとすると、そもそも内務省にいたという話から違ってくるかも知れない。
では、一体どの段階で後藤田が内務省だったという話になったのか、と言うことで注目したいのが、昭和29年の正月の一般参賀で起こった、参賀に訪れた人々が将棋倒しとなり、16人が亡くなったという二重橋事件だ。このとき、警固は警視庁と皇宮警察によって行われており、その両者から異なった報告があがったという事で、その責任がどこにあるのか、という事が一つの政治的テーマとして浮上してきた。元々、警視庁は内務省管轄だが、皇宮警察は宮内省管轄から戦後に内務省、そして内務省解体後に警察庁の国家地方警察に組み入れられたという事情があり、内務省がなくなった後にその責任者は一体誰なのか、という事が定まらないままであった。そこで、法務大臣の犬養健が見舞いに行ったと言うことで、法務省管轄になるのか否か、というような問題が提起され、検察を担当する法務大臣と警察の担当が同じで良いのか、と言うことになったのではないか。そんな問題を抱えたままその年は年明けから造船疑獄が火を噴いており、政治家を逮捕できるのは一体誰なのか、という問題を含みながら、結局犬養は4月に佐藤幹事長の逮捕にストップをかけるという指揮権を発動し、それが問題となっていった。要するに、警察の責任者が明らかでないまま、私の感覚では汚職と呼べるようなものは存在しなかったのではないかと感じられる佐藤幹事長への調査が警察の独走で行われ、それを誰が止められるのか、という非常に政治的な問題へと発展してゆく、そのきっかけとなったのがこの二重橋事件であると言えそうだ。その事件について議論がなされた第19回国会の地方行政委員会で、後藤田は国家地方警察本部警視正(警ら交通課長)として答弁している。果たして事故以前からこの部署が警察庁にあったのか、というのは非常に疑問で、つまり警察庁が警ら交通課長などと言う非常に現場に近い役職を持っていたのか、という疑問が浮かび上がる。確かに国家地方警察は、自治体警察が返上されたところでの警察業務をしていたと言うことで、役職としてはあったかもしれない。しかしながら、東京には警視庁が厳然と存在しているわけで、それを管理する存在としての国家地方警察本部警ら交通課長というのはかなり違和感がある。これは、おそらく警視庁を自らの指揮管轄下に置きたいという警察庁側の意図があり、その為にこの国会答弁を利用したのだと考えられる。
このあたりは、そんな小さな個々人の意図とか、組織の意向といったような物ではなく、もっと大きな、戦後処理に関わる様々な思いの奔流のようなものの中で、このようないくつかの事件が表面化してきた、という事なのだろう。現段階ではとてもうまくまとめられる気がしないので、書けるようになったらまた戻ってくるかも知れない。いずれにしても、後藤田という人物はそれにうまく乗り、権力への階段を駆け上がっていったのだと言える。
後藤田は、この国会答弁をきっかけに完全に警察庁に足がかりを得て、30年7月1日に警察庁長官官房会計課長となった。会計課長とは、要するに予算管理であり、ここで国庫から金を引っ張ってくる何らかの術を持っていたことが確かめられる。つまり、二重橋事件に絡んで、保安名目に金を引っ張ってくる様々な手法を得たのだと考えられる。そこで後藤田は、パトカーの整備や通信・鑑識能力の強化等、警察の科学化を推進し、また人事課長であった新井裕とともに自治庁に働きかけて定員数を増やして警察力を強化し、「革命の前夜」の状況であった当時の社会情勢に備えたという。要するに、治安危機を煽って保安能力を高めるという、旧軍部さながらのことをやってのけたのが後藤田だったのだ。当時の大蔵大臣は、第1次鳩山政権の一万田尚登で、戦後長期に亘って日銀総裁を務め、インフレを起こして政府の財政危機を乗り越えた人物で、要するに戦後の隠し財産的なものを実質的に作り出し、管理していた人物である。これは、実体としては、額面が大幅に上がった国有財産のことを示しているのだと考えて良いだろう。とにかく後藤田はそれをかぎつけ、保安名目でそこから金を引き出したのだと考えられる。
この人物を追っていると疲れ切ってしまうので、とりあえず一旦ここまでとする。少し筆が走りすぎているが、人物評価についてはもう少し保留する。
参考
Wikipedia 関連ページ