朝一番に目が覚めた麦子は、「ゆかた着たい!」と言いました。
今夜は近くの公園で夏祭りが開かれるのです。
「りんごあめ食べれるかなぁ」
つやつやのりんご飴を想像して麦子は心躍らせました。
公園には一週間前から赤い提灯がたくさんぶら下がっております。
「お祭りは夜からだからね」
麦子のお母さんは朝食の支度をしながら微笑みました。
〇
麦子がお昼寝から目覚めたとき、もう日が沈みかけておりました。
お腹に掛かっていたたまご色のタオルケットを放り投げ、麦子はお母さんのもとへ駆け寄ります。
お母さんが畳の部屋の押し入れの奥から水色の浴衣を出してくれました。
水色の浴衣に身を包んだ麦子は、その場でくるくると回ってみせます。
麦子のお母さんは優しく手を叩いて「似合ってるわよ」と微笑みました。
身支度を済ませ玄関を開けると、湿った気怠い空気が麦子を包みました。
夏休みの匂いがします。
住宅地を歩いてゆくと、子どもたちの声が次第に賑やかになっていきます。
同じ方向に歩いてゆく人がちらほらと増えていき、なにやら香ばしい匂いが漂ってきました。
「おまつりだ…!」
麦子は思わずつぶやきました。
〇
夜の公園はまるで別世界のようです。
赤い提灯や夜店の蛍光灯が浮足立った人々を照らしております。
麦子はお母さんと手をつなぎ、夜店を見て回りました。
「人が多いから、手を離さないようにね。はぐれてしまうから。」
お母さんが言いましたが、麦子の頭の中はりんご飴のことでいっぱいのようでした。
焼きとうもろこしやフランクフルト、ベビーカステラの夜店を通り過ぎ、麦子のお母さんはラムネをひとつ買ってくれました。
麦子は喉が渇いていたのでラムネをぐびぐびと飲みましたが、炭酸が喉でぱちぱちして苦しいのですぐお母さんに返してしまいました。
お母さんは微笑みながらラムネを受け取りました。
お母さんが歩くたびに、瓶のガラス玉がカランカランと鳴るのでした。
麦子はあたりを見渡しました。
綿あめやかき氷や金魚を手に持つ子どもたちが麦子の横を駆け抜けていきます。
けれども、真っなりんご飴を持つ子は一人としていませんでした。
「りんごあめないのかなぁ」
お母さんと手をつなぎながら麦子は肩を落としました。
〇
「只今より、中央のやぐらで盆踊りを行います。只今より…」
スピーカーが繰り返し流れています。
人々が中央のやぐらに集まっていき、お母さんに手を引かれて麦子も公園の中央に向かいました。
喧騒が次第に大きくなっていきます。
やぐらに置かれた太鼓の音が、麦子の腹の底を震わせました。
麦子だけではなく、ほかの子どもたちもやぐらを見上げて興味津々です。
ふと気配を感じ、麦子は振り返りました。
人混みの隙間から、麦子はついに見つけたのです。
真っ赤な浴衣に身を包んだ女の子が、すーっと人混みの間を抜けていくのが見えました。
その女の子の手には、たしかにりんご飴が握られていたのです。
〇
気づけば、麦子はお母さんの手を離していました。
水の上をすべる金魚のように、麦子と赤い浴衣の女の子は人混みの間をすり抜けていきます。
けれども、女の子との距離はなかなか縮まりません。
麦子の足は空回りしているかのように地面を捉えないのです。
二人は人混みを抜け、人がまばらになった公園の裏に出ました。
喧騒は遠ざかり、ほのかな灯りがぽつぽつと浮かんでいます。
そこでようやく麦子は女の子に追いつきました。
たくさん走ったはずなのに、不思議と息は苦しくありませんでした。
「そのりんごあめはどこで買ったの?」
麦子はやっと尋ねました。
女の子の表情はよく見えませんでしたが、どうやら微笑んだようでした。
「こっちよこっち」
女の子が麦子の手を引いて歩き出しました。
その手は、驚くほど冷たいのでした。
〇
女の子に手を引かれながら、麦子はすべるように住宅街を抜けていきます。
公園から遠ざかったり近づいたりしながら、ぐるぐると路地を回ります。
そうして麦子は夜に吸い込まれていくのでした。
同じ場所をぐるぐると巡っていることに麦子は気づきません。
「ほんとにこっちなの?」
心配そうな麦子に、女の子はただ微笑むばかりでした。
〇
このとき、水色だった麦子の浴衣は、少しずつ赤く染まっていました。
それは女の子の浴衣と同じ赤色です。
ゆっくりゆっくり染まっていきます。
そのことに麦子はまったく気づいていないのでした。
〇
ほどなくして、喧騒のはずれにぽつんと佇むひとつの屋台に辿り着きました。
古びた屋台に人影はありませんでしたが、そこには真っ赤に輝くりんご飴がところせましと並べられていました。
「りんごあめ!」
麦子は思わず叫びました。
女の子は屋台からひょいとりんご飴を手に取って麦子に差し出します。
「おかねはいいの?お店のひとは?」
麦子は急に不安になりました。
気がつけば、麦子の周りには女の子と屋台以外になにもありませんでした。
「おまつりはどこ?」
震えた声で麦子は尋ねました。
「りんご飴を食べたら戻りましょ」
女の子は微笑みながら言いました。
その声は麦子にそっくりなのでした。
もしくは麦子の声が女の子にそっくりなのでした。
〇
麦子はりんご飴を手に取りました。
その艶やかな赤色は宝石のようでもあり血のようでもありました。
麦子はついにりんご飴を一口齧りました。
甘くてすっぱいりんご飴が口の中でぱちぱち弾けます。
このとき、麦子は自分の浴衣が真っ赤に染まっていることに気がつきました。
いつの間にか麦子は女の子と瓜二つの格好になっていたのです。
二人の足が地面から離れていきます。
赤い提灯や人々の喧騒が足元に霞んで見えました。
真っ赤な浴衣に身を包んだ二人の女の子が夏の夜空に昇っていきます。
〇
そのとき、カランカランと音がしました。
それはラムネのガラス玉の音でした。
「おかあさん!」
宙に浮く女の子の一人がそう叫びます。
それは麦子なのでした。
「あら、ざんねん」
真っ赤な浴衣の女の子が上空で微笑んでいるのが見えました。
その微笑みは、驚くほど冷たいものでした。
〇
途端、麦子は体重を取り戻し、地面に向かって落ちていきました。
眼下の赤い提灯が鮮明に映ります。
夏夜の気怠い空気が麦子を包みました。
〇
地面に降り立った麦子はお母さんのもとへ駆け出しました。
今にも泣きだしそうに顔を歪めた麦子のお母さんは、すすり泣く麦子を力いっぱい抱きしめました。
夏祭りの喧騒がはるか遠くに聞こえます。
ラムネのガラス玉がカランカランと音を立てます。
お母さんに抱かれる麦子の浴衣は、きれいな水色に染まっておりました。