【目次】
1.週刊少年ジャンプが掲げる3原則
2.ドラゴンボール篇
-「オラ、わくわくするぞっ!!」
-クリリンの死とスーパーサイヤ人への覚醒
-孫悟空はどんなヒーローだったか?
3.ワンピース篇
-後天的と先天的のミックス
-ワンピースにおける「死」
-ドラゴンボールが描く死とワンピースが描く死
-ルフィはどんなヒーローか?
4.平成前期のヒーロー像に備わる「強者のDNA」
5.俺たちはもっとできる人間のはず
週刊少年ジャンプが創刊したのは昭和43年のことである。実は、少年マガジン(講談社)と少年サンデー(小学館)は一足早い昭和32年に創刊しており、後発だったというのは驚きである。
そんな週刊少年ジャンプも昨今では売れ行きが伸び悩んでいるが、発行部数が特に高かったのは1980年代から1990年代に掛けてである(ちなみに1988年に500万部の大台を突破している)。私は1980年代生まれであり、まさにジャンプ黄金期とともに幼少時代を過ごしたといっても強ち間違いではなく、今でも印象に残っている作品が多数ある。
私がどのようなコンテンツに触れてきたかを通じて、
昭和~平成前期に描かれたヒーロー像を振り返っていきたい。
少年ジャンプは創刊時の読者アンケートをもとに、掲載するマンガに共通する価値観として「友情」「努力」「勝利」を盛り込むことを原則としているのは有名な話である。
主な読者層である小中学生にとって、友情・努力・勝利といった抽象概念を学ぶには先生から授業や教科書をつうじて教えられるよりも、より没頭し感情移入できるマンガを通したほうが理解しやすいというのは自分の体験からも理解できる。
この3原則については過去も現在も未来も変わることなくジャンプに受け継がれる価値観であるはずだ。では、そういった点を踏まえ、その当時のヒーローはどう描かれていたのかをいくつかの作品をもとに振り返ってみたい。
連載1回目でも言及したが、ヒーローを構成する要素は以下の4つだ。
「悲劇(悲劇的境遇)」「仲間」「怒りの感情」「敵」
そしてさらに、ジャンプ的ヒーローの要素を加えるとすれば、以下の2点になるだろう。
・成長と覚醒
・覚醒をもたらす「仲間の死」
挙げた2要素は個々に独立したものというより、互いに関連しあっている。本稿では、1990年〜2000年代前半の代表作品「ドラゴンボール」と「ワンピース」を取り上げてみたい。どちらも、言わずと知れた人気作だ。
ドラゴンボールは主人公である孫悟空が、次々と迫りくる敵(多くは地球制服を企む)を倒していく物語だ。
孫悟空は戦闘センスに恵まれ、闘えば闘うほどに強くなっていく。その強さは彼がサイヤ人という戦闘民族であることに由来している。好戦的な彼らは元来狂暴で残忍冷酷であるのだが、孫悟空は幼少期に頭を強打するという事件以降、その狂暴さが幸いなことになくなった経緯がある。しかし、孫悟空の強敵を目の前にしても臆することなく「オラ、わくわくするぞっ!!」という発言する姿勢は、元来のサイヤ人の好戦的な気性の名残だと思うが、狂暴さが無くなった分、闘いそのものを純粋に楽しむという側面が強調されているといえる。
孫悟空は地球を守るヒーローとして命を掛けて闘うが、彼は人間ではない。ルーツを辿れば宇宙から来たサイヤ人という種族だ。「ルーツを辿る」話は仮面ライダーにも通じるが、実は人間ではないというバックグラウンドはヒーローにとってテッパンな要素なのかもしれない。
それに、別エピソードで語られる話だが孫悟空は父バーダックをフリーザに殺されており、故郷の惑星ベジータもフリーザによって滅ぼされている。悲劇的な境遇を抱えているというのも他のヒーローと共通する要素を保持しているといえる。
そんな孫悟空が大きな転換点を迎えるエピソードがナメック星篇である。
ナメック星に存在するドラゴンボール(通常より大きく、3つの願いを叶えてくれる)を手に入れるため、ナメック星人を虐殺する強敵フリーザと闘う最中、孫悟空は仲間であるクリリンを無残に殺されてしまう。その怒りから孫悟空はスーパーサイヤ人に覚醒。とてつもない力を手に入れフリーザを撃破する。
孫悟空は戦闘民族サイヤ人ではあるが、大らかで純粋無垢な存在として描かれた。大食漢だし天然ボケな発言をする、そして仲間想いだ。例えば、機動戦士ガンダムの主人公「アムロレイ」が「なぜ自分が戦争に巻き込まれなければいけないのか?」と思い悩むのに対して、孫悟空は戦闘民族サイヤ人として戦いを楽しみ、強さを希求する姿勢が際立っていたように思う。(なぜなら、アムロレイは人間だし、孫悟空はサイヤ人だからかな)
こじつけのように思えるが、ひたすらに敵を倒し、その過程で成長していく様は昔の日本が経験した右肩上がりの高度経済成長期とその後の停滞期とも重なり、子供だけでなく大人もそのストーリーにのめり込むことで、不況という鬱屈した日々を紛らわらせていたのではないか。孫悟空の純粋な強さは、ある意味で水戸黄門のように絶対負けないヒーローの象徴として描かれていたように思う。
次いで、ワンピースに話を移そう。
いまでこそ「キングダム大好き芸人」や「ハンターハンター大好き芸人」などアメトークはじめ様々なトーク番組でマンガが取り上げられるようになったが、その先鞭をつけたのが「ワンピース」だろう。
写真を見て頂ければ分かるように、いい大人が熱心に読んでその世界観に心酔している。それはテレビ的に面白いからというのもあるが、ビジネス界隈、もちろんターゲット読者層の小中高生界隈でも大きな人気を持ったのは、それが本当に読者に受けられたからだろうといえる。
マンガを読んでいるというのをなかなか公言できなかった人(特に大人)であっても、ワンピースについてはそれが許された空気感があったように思う。ワンピースが作った空気感が他のマンガ作品にも飛び火し、「マンガを読んでいる」ということが、それほど恥ずかしいことではないという世相になったことに大きく貢献した。それくらい、ワンピースが社会に与えた影響は大きかった。
さて主人公モンキー・D・ルフィも孫悟空に似ていて大食漢・仲間想いだ。
彼の強さは悪魔の実と呼ばれる特殊な食べ物を食べたことによる後天的に備わった能力である。しかし、ルフィも孫悟空と同様、彼のルーツに特殊な事情がある。彼もまた「”D”を継ぐ者」という特別なルーツを持つ者として描かれている。
ここでワンピースで特徴的に描かれる「死」について考えてみたい。
ワンピースの作者、尾田栄一郎は「キャラクターの死」を描かないことを重要な要素に挙げていた。戦いが終わったら必ず仲間や島の住人たちと宴をするのがワンピースの作法になっているのだが、
「仲間や敵が死んだりしたら、楽しい宴のシーンが描けない」
と尾田氏は語っている。どんな厳しい戦いであっても誰も(味方も敵も)死んでいない。死んだかと思われたキャラクターも、後々インぺルダウン(牢獄)に収容されていることが描かれている。しかし、第574 話で初めてキャラクターの死が描かれた。主人公ルフィの義兄ポートガス・D・エース(以下エース)と第576 話では、海賊王に一番近い男と言われた白ひげ(エドワード・ニューゲート)が死んだ。
ルフィはこの大事件を機に抜け殻のようになってしまう。
そこから立ち直る物語が次の展開への大きなキッカケになっていく訳だが、それまで頑なにキャラクターの死を描いてこなかった尾田氏が、ルフィに近しい人物の死を描いたことは、これがルフィの成長に不可欠であったと判断したからだろう。
ワンピースで描かれるキャラクターが死んでしまった場合、それは完全なる死である。「完全なる」という表現を使ったのは、先に挙げたドラゴンボールは死の扱いが特殊であるからだ。
ドラゴンボールにおいてはタイトル名にもなっている特殊な道具である「ドラゴンボール」を7つ集めると神龍(シェンロン)が何でも願いを叶えてくれる。それは死んだ人を生き返らせることも可能で、ナメック星で死んでしまったクリリンも生き返らせることができた。そのため、ドラゴンボールにおいては「死」というものが一生の別れという風に描かれていないことが特徴的である。
また、ドラゴンボールには天界(⇔地獄)という存在もある。天界(地獄)では孫悟空の味方も、かつて敵だったものも登場し、そこでも闘いが繰り広げられる。何より、主人公である孫悟空も一度死んでしまうのだ。
さて、ルフィはどんなヒーローであるか?ワンピースについてはまだ連載中なので、今後描かれ方が変わっていく可能性もあるが、総じて楽観的であるといえる。どんな困難でも楽しんでしまう、その点はドラゴンボールの孫悟空に通じるところがあるだろう。
敢えて違いを見つけるとしたら、ルフィは「他者に求めることができる」ことではないか?「助けてほしい」「仲間になってほしい」と自分の弱みを曝け出して他者と向き合うことができることが新しい。
一方で、自分の想いを貫くために時にワガママに、強引に振る舞うことができる激情型のヒーローでもある。それは、海賊であるという性格上それも納得ではある。
何より、ルフィは自分自身をヒーロー(正義の味方)だとは思っていないだろう。それは、正義が海軍の側にあるからというのもそうだし、そもそも正義を行いたいから冒険をしている訳ではなく、海賊王になりたいがゆえに冒険をしている。その過程で、たまたま助けを求める人がいるから助けている訳だ。その相手は同じ海賊であることもあるし、海軍であることもある。
まとめると、ルフィはヒーローではあるが正義の味方ではない。自分が掲げた目標に対して突き進み、その過程で障害があれば取り除くという姿勢でしかないからだ。その飽くなき目標達成の姿勢がビジネスパーソンであったり、夢を追い求める人たちの心を捉え夢中にさせたのではないだろうか。ルフィには、何故か付いて行きたくなるそんな魅力に溢れているヒーローだ。
孫悟空にも、ルフィにも共通することだが、どんなに強い敵であっても諦めずに立ち向かって最終的には勝利をもぎ取る。両者ともに、そのルーツに強者のDNAを持っている。孫悟空はサイヤ人、ルフィは”D”を継ぐ者だ。
つまり、生まれながらのエリートとも言えるのではないだろうか?
実際、孫悟空のライバルとして描かれるベジータは「俺はエリートだ、サイヤ人の王子だ」という発言をよくする。しかしながら、本来エリートではないはずの孫悟空に悉く敗北し圧倒的な差をつけられてしまう。
ルフィにおいてもそうだ。ルフィも海軍大将や四皇など強者のみが扱うことが可能と言われる「覇王色の覇気」というものを扱うことができる素質があった。
時代はバブル崩壊後の後退期。失われた10年と言われたのが、20年、30年をどんどん延びのびになってきている。安倍首相は経済成長を高らかに謳うが、現在もなおそこから抜け出せていないのではないかと思う。
その当時(いや今も)、大人たちの誰もが自信を失っていたはずだ。尾田栄一郎さんは子供たちには「友情・努力・勝利」というジャンプ3原則に加えて、「俺たち(日本人)はもっと出来るはず」というメッセージを読者世代に向けて出していたのではないかと私は解釈している。そこには大人の読者も含まれていたかもしれない。
なぜなら、先に述べたようにワンピースはその後若い世代のバイブルとして語られるだけでなく、ビジネス文脈でも語られることが増えていった。それは吹けば飛んでしまうような(失礼。。)少人数のスタートアップ企業の経営者が特にワンピースを好み、彼らは日本社会に居座る大企業に対してビジネス上の戦いを挑んでいた。その構図がアナロジーとしてワンピースの「麦わらの一味」と重なった。
ワンピースがここまで世の中に受け入れられたのは、この日本の閉塞感を打破できるのは「麦わらの一味」のような今は名もない存在かもしれないが、着実に力をつけつつある新興勢力海賊団(組織)しかいない。そういう世の中の期待や、主体であるスタートアップ企業の宣言のようなものがマッチした結果のように思う。
その点、「ドラゴンボール」の孫悟空は前時代のヒーローという風に捉えることもできるため、新しい時代と共に生まれた「ワンピース」という作品の重要性を感じざるを得ない。
今回は「ドラゴンボール」と「ワンピース」という2つの作品のみを取り上げて抽出した要素に過ぎないが、広く大衆に読まれた作品ということでそれが世相に与えた影響を測るには、それほど外れてはいないだろう。
特にルフィが世の中に与えた影響というのは、うつむき加減の我々に対して「仲間を集めて、旗を立てろ!自分たちでどうにかしろ!」と鼓舞してくれる存在だったと私は解釈した。
次回は、平成後期に生まれたジャンプ作品が、現在進行形で我々にどのような影響を与えているのかを考察してみたい。
※本稿で使用した画像は集英社から発刊された各作品より引用させて頂きました。