呪術廻戦って掲げてるのになんで半沢直樹?とお思いでしょう。前置きが長くなりますが、少しお付き合いください。
昨日会社のことで色々考えを巡らせてしまい、うまく寝付けませんでした。そこで何を思ったかスマホでTVerを開き「半沢直樹(TBS)」を観直してしまった。7/9時点で第5話までアーカイブされていて全て観てしまったので気づいたら時刻は午前3時を回ってしまっていた。明日仕事なのに何してんだろう、、、と反省しました。
呪術廻戦を読んでいて呪いを生み出す元となるものが「嫉妬・公開・恥辱」などの負のエネルギーだということは前回の記事でもご説明しました。半沢直樹ってそれらの負の感情が吹き溜まったまさに「呪術廻戦」どストライクな内容だと思う訳です。
ここでタイトルの話に入っていきますが、ドラマの作中セリフの中で竹下金属の社長・竹下が半沢直樹にこう言うシーンがあります。
なぁ半沢はん、不景気やし俺らみたいなしょうもないオッサン、なーんもええこと無いと思ってたんやけど、正義はたまには勝つ。
半沢直樹がリアルタイムで放送されていた当時、多くの視聴者は半沢が不正を働く上司たちを懲らしめるたびに「あースッキリした」と勧善懲悪ドラマを楽しんだ。それを「現代の時代劇」と表現している記事があるのも納得だが、果たして彼は時代劇に出てくるような庶民のヒーロー(正義)なのだろうか?その点に個人的には疑問符がついてしまう。
クリストファー・ノーランの「ダークナイト」
半沢直樹を産業中央銀行へを駆り立てたのは笑福亭鶴瓶演じる父の死だった。実父が首を吊る現場に遭遇してしまう鮮烈な体験は、幼きブルース・ウェインが遭遇した事件にも似ている。そう、父トーマス・ウェイン殺害の瞬間だ。彼らを彼らたらしめる出来事というのに共通点があるが、ブルース・ウェインが父を殺したチルを当初は恨みつつも、その憎悪は個人ではなく犯罪社会であるゴッサムシティ、ひいては暗黒社会のシステムそのものに向いていったのに対して、半沢直樹のそれは支店長である浅野、そして常務である大和田という個人に終始向いていたのが大きく異なるポイントだと思う。
先に紹介した記事が「現代の時代劇」と称したが、日本人は個人の復讐劇というのをエンタメとして楽しめる国民性ではあるのだと思う。「仇討ち」とか「親の仇」とかは時代劇の定番ですからね。しかしそこで思うのは、個人の復讐劇を遂げようとする人をヒーローだ正義だと称えてよいものだろうか?ということだ。個人が感情移入する分には構わないが、それを良き者、良き姿として称えるのには悩んでしまう。
バットマンがダークヒーローとして称えられるのは、法律では裁けない犯罪者が溢れかえるゴッサムシティにおいて、法の外からその正義を執行する人だったからだろう。そのルーツは純然たる個人の怨恨だったが、目線が社会へと昇華された。
それに対して、半沢直樹は舞台が銀行という閉じた世界での話である。譲ることができない個人のポリシーや信念というのはあると思うのだが、それを彼は正義の人だと称え応援するのには違和感を覚えてしまう。観直して改めてそう思ってしまった。リアルタイムで観ていた時は、私もスッキリして「倍返しだ!」って真似していたかもしれないが。。
もちろん、それが良い悪いという話がしたいのではなくて。これは作中、半沢を貶めるためだけの目的で行われた裁量臨店の場面であったセリフだが「茶番だ」。こうして客観的に見てみると、我々のいるサラリーマン社会というのはどこまで行っても「壮大な茶番劇」でしかないようにも思えてくる。会社組織というのは、きっと呪いが溜まりやすい場所に違いない。半沢直樹、彼は日本人にとってのヒーローなのだろうか?悩ましい問題だ。
伏黒恵が「俺は正義の味方じゃない」と言い切るあたり。カッコイイです。