ようやくここまで来ました。長かったです。
毎週何かを発表するというのは非常に苦しい作業だということを実感しました。漫画家さん、本当に尊敬します。
さて、そもそもは「鬼滅の刃」という作品に惹かれたことからこのシリーズ(マガジン)は始まりました。その間にも「呪術回戦」とか他にも面白い漫画が週刊少年ジャンプにあるんだと気づいて、まだまだ別シリーズとしてこういったマガジンを書いてみたいなぁと思った次第です。
さて、初回記事(12/23公開)では「竈門丹次郎が描く未来」と仰々しく仮タイトルをつけていましたが、作品について考えているうちに「みんなの炭治郎」のほうが適切ではないかと思うようになった。
その理由は、竈門炭治郎は登場人物だけでなく、読者含め「みんなのお兄ちゃん」のような気がしてくるからです。作中の時代も鬼が蔓延っていて辛い時代、我々が生きる現代も殺伐として生き抜くのが厳しい世の中です。そんな世界だからこそ、炭治郎のような兄がいたらその兄弟は家族は、仲間はどんなに幸せだろうかと思うのです。そういった炭治郎が持つ温かさにも触れつつ、最終稿を進めていきたいと思います。
【目次】
・炭治郎の描かれ方
・読者すらも喝破してみせる炭治郎
・努力型主人公
・ある意味で孤独な炭治郎
・炭治郎はどんなヒーローなのか?
炭次郎は家族想いだ、妹想いでもある。そして、鬼にも感情移入できる。それは彼が化け物すら愛せる心根の持ち主だからということではない。鬼が元は人間であると知っているから、彼は鬼が消えゆくその瞬間、鬼たちを人として気遣い接することができるのである。その温かさは、例えるなら兄弟愛・家族愛だと思う。その点で、彼はみんなのお兄さんだ。人の心を温かくしてくれる、お兄さん。
炭治郎の優しさがにじみ出る場面としてこれを挙げてみよう。
このシーンは、霞柱の時透無一郎が「縁壱零式」というカラクリ人形を使って稽古をしたいと小鉄(面の少年)に言う(というより命令する)のだが、小鉄はそれを稽古に使ったら壊れてしまうと断る(もう直せないと)。その二人のやり取りを見て発した炭治郎の発言だ。
補足すると、「柱(はしら)」というのは鬼殺隊の部隊長みたいなものでとても強い人達なんです。中でも霞柱の時透無一郎は剣の天才と言われるほど凄い人物であります。言うならばエリートです。その彼が子供に向ける無遠慮な言葉に堪らず反論しました。反論になっているかというと全くなっていないのですが、庇われた立場の小鉄からすると安心したのではないでしょうか?
世の中の道理からすると正しくても、それをストレートに語ってしまうと摩擦生じ、時に人を傷つけます。それは少し考えれば当然なことではあるんだけれど、「合理性」という数字に換算できる物差しでみれば、それがまかり通ってしまう世の中がある。我々もそういう世界に生きているかもしれません。全然論理的ではないけれど、炭治郎は発せられた正論によって傷つく小鉄を守るために「配慮」という言葉で反論した。
配慮:心をくばること。他人や他のことのために気を遣うこと。
※コトバンクより引用
他人のために気を遣うというのは、個人によって感じ方・捉え方が微妙に異なるために共通の指標が作りにくい。そのため例えば電車の中で「配慮しなさいよ!」と叫んでも相手には上手く想いが伝わらないかもしれない。しかし、自分のために言ってくれているという感覚があるから、ここまでストレートに伝えてくれると小鉄は嬉しかったろう。炭治郎は何だか頼もしい。
本編には炭治郎の心の温かさが心象風景として描かれているシーンがある。
これは第7巻で眠り鬼・魘夢(えんむ)と戦った際、一般人の乗客が魘夢に騙され炭治郎の夢の中で「精神の核(これを破壊されたら人としてダメになる)」を破壊しようと攻撃を企てていたシーン。
炭治郎の精神の核に触れた男性は上記のように
「何という美しさ、どこまでの広い、暖かい」
と表現している。
お兄さんというと年下に対してのイメージが強くなるが、年上に対する優しさ(この場合は尊敬という表現が正しいだろうか)というのもあると思う。
上弦の参・猗窩座(あかざ)との戦闘において炎柱・煉獄杏寿郎は命を落としてしまう。
前回の記事でも触れたのだが、「鬼滅の刃」は敵が強すぎる。鬼は首を切られない限り死なない。腕を切り落とされても復元するし、心臓を撃ち抜かれても死なない。日の光を浴びたら死ぬのだが、基本鬼は夜間にしか行動しないから問題ない。
人間は腕を切り落とされればそのまま腕は無くなる。もちろん心臓を刺されれば即死だ。鬼と戦うのも、鬼に有利な夜間に戦っている。あらゆる状況において、人間は不利な状況に置かれているのだ。
なんというか、我々読者ですら至極当然のこととして受け入れてしまっている状況(設定)ですら、炭治郎はそれを「当たり前ではない」と気づかせてくれる。どれだけ不利な状況で人間(煉獄杏寿郎)が闘っているかを、彼は敬意をもって称えている。それを読者にも伝えている。どれだけ杏寿郎という剣士が強いのかを。
何気なく漫画を読んでいると、読者はどちらかというと鬼側の立場に立ってしまうのではないだろうか?作者がそういう設定をしたから、それを当然のものとして受け入れてストーリーを読んでしまう。
しかし、それは当然なのか?
日の光が出てきてしまうから(つまり、死んでしまうから)戦闘を放棄して逃げ出す鬼(猗窩座)。猗窩座は強さを求める鬼として描かれているのだが、真の強さはどちらにあるのか?次元が異なるものを比較することはできないが、炭治郎はそう叫んでいるように思う。
杏寿郎からすれば、猗窩座との戦いに敗れ死んでしまうとしても、その人生に悔いは残らなかったのだろう。炭治郎は杏寿郎のことを認め称えている。良き、後輩とでも言えるだろうか。個人的に杏寿郎の巻は神巻だと思う。この話が映画化されるというのは納得だし、とても楽しみだ。
当初この記事を書こうと思ったとき、調べているうちに以下の記事を見つけた。
私もそう感じていたし、この記事をベースに書いてみようと思ったが、「鬼滅の刃」が描く炭治郎の魅力は努力にもあるけど、もっと違うところ彼の本質的な魅力があるのではないか?そう考え始めた。(そもそも、週刊少年ジャンプである以上「友情・努力・勝利」の三原則は必ず約束されている訳だから)
これまで述べてきたように、彼の本質は「みんなのお兄ちゃん」的な姿であると言える。しかし、そうであるが故の孤独というものがあって、炭治郎はそれと戦っているようにも思うのである。自分が頑張る必要がある、頼れないという孤独だ。(しかし、後で仲間との協働が更なる強さを引き出すので完全なる孤独とは言い切れない)
それは炭治郎が自分で自分を励ますことで難局を乗り切っているという姿に、彼の孤独な影を感じるのである。長男であることの苦しみを共有できる読者の方もいらっしゃるのではないだろうか。
彼は戦闘中、自分で自分を鼓舞し闘っている。彼の強さの源泉は家族である。しかし、禰豆子は鬼になってしまい会話をすることができない。それ以外の家族は既に亡くなってしまった。彼が心の中で会話する家族は、彼が作り出した記憶の中の家族だ。現実には彼を鼓舞してくれる人はおらず(禰豆子がいるか)、彼は常に誰かを鼓舞する側、支える側であり続ける。周囲から支えられることももちろんあるのだが、それ以上に仲間を先導し助けている。
その孤独、辛さ、寂しさ、彼は耐えられているのだろうか?
その優しさは、時に読む者を息苦しくさせるような優しさである。禰豆子は妹であるがゆえに、その点に気づいているのだろう。
私の答えは、炭治郎はヒーローであると同時に「みんなのお兄ちゃん」という表現の方が適切だと思った。彼は強い。「痣者(あざもの)」であるし、選ばれたヒーローである。しかし、彼は「自分に厳しい」、他人に優しくあるだけでなく、自分に対しては物凄く厳しい。それは、他人に優しくあるために強くなければならないというような気持ちを感じる、どことなく心配になる強さである。
そう、炭治郎はヒーローでありながらお兄ちゃんであり、読者に何か痛々しくて見てられないというような不安を抱かせるヒーローでもある。
竈門炭治郎は近年稀にみる異質な少年漫画のヒーローだ。
これまでドラゴンボール、ワンピース、進撃の巨人、僕のヒーローアカデミア、などいわゆる王道的な少年漫画を見てきたが、「鬼滅の刃」は少年漫画の体をしていながら、年長者のお兄ちゃんと年下の妹がともに冒険する話、例えば現代における「ヘンゼルとグレーテル」のような物語でもあるのではないだろうか。
鬼滅の刃は作品としても2019年の顔となるような大ヒット作となった。
その裏側にあるヒットの理由が、例えば多くの人が炭治郎のようなお兄ちゃんを深層心理で求めており、その優しさ温かさに触れて心が晴れる、一方でその危うさが心配になる親心を同時に読者は抱えている。そんな背景があるのではないかと勝手に想像している。
まだ完結していない物語だが、炭治郎がどんな結末を迎えるのか今後の展開がますます楽しみになる作品だ。