ケース①で下弦の伍「累」のエピソードについて書きましたが、今回はケース②として炎柱「煉獄杏寿郎」に着目してみたいと思います。
「煉獄杏寿郎」にとって最大のクライマックスは上弦の参「猗窩座(あかざ)」との戦闘かと思います。映画化される「無限列車篇」は杏寿郎の死が印象的なシナリオになる訳ですが、その凄まじい戦闘シーンは世の読者の関心を集めたエピソードだったでしょう。今回もケース①と同じく「日本のマンガ・アニメにおける『戦い』の表象(以下、同書)」を参考にし、同書にある「ジョーの命題」という概念をベースに「杏寿郎vs猗窩座」の闘いを振り返ってみたいと思います。
さて、サラッと書いてしまいましたが「ジョーの命題」というのは何でしょうか??本論に入る前にちょっと遠回りをしますが、話のベースとなる内容のため若干説明させて下さい。
早速、ひとつ文章を引用します。
つまり、マンガやアニメに負わされている課題は、「傷つかない記号」で「傷つく身体」を表現するという「アトムの命題」ではない。実際に負わされている課題は、キャラクターは「傷つく身体」を持っているという前提で「傷つかない身体」を実現せよ、という「アトムの命題」を転倒させたものなのである。
※同書 2章1節 転倒される「アトムの命題」より
なんのこっちゃ?という感じですよね。。。。
しかし、これは深く掘り下げていくにあたって重要な点なので、まずここから紐解かせてください。上記の文章を2つに分解すると以下のようになります。
①「傷つかない記号」で「傷つく身体」を表現するという「アトムの命題」ではない。
②キャラクターは「傷つく身体」を持っているという前提で「傷つかない身体」を実現せよ、という「アトムの命題」を転倒させたもの
もはや現代文の授業みたいですが、なんとかお付き合いください。
(ここで離脱しないでね、、、)
①が何を言っているかというと、大塚英志という研究者が「アトムの命題」という著書で「傷つく身体」という概念を生み出しました。それは何かというと、マンガのキャラクターは現実に存在しないという点で”記号の組み合わせでできた非リアリズム的な図像”であると。また、”生身の肉体と持たないが故に本当に傷つくことはなく、仮に傷つき死んだとしても、次の場面で直ぐに回復することができる”という風に概念を整理しました。難しい言葉で表現するとそうなりますが、平易に言うと「キャラクターは現実に存在しないただの画(像)である。画なんだから”生き死に”も”傷の回復”も作者の自由にできるよね」ということかと思います(乱暴すぎ?)。
さらに、この考え方には手塚治虫が1979年のインタビューで以下のように述べたことと大きく関連しているとされています。
僕の絵とというのは驚くと目が丸くなるし、怒ると必ずヒゲオヤジみたいに目のところにシワが寄るし、顔がとび出すし。そう、パターンがあるのね。つまりひとつの記号なんだと思う。[中略]つまり、僕にとってのまんがというのは表現手段の符牒にしかすぎなくて、実際には僕は画を描いてるんじゃなくて、ある特殊な文字で話を描いているんじゃないかという気がする。
※手塚治虫「珈琲と紅茶で深夜まで」より
ただマンガを読むのに、いちいちここまで考えて読む人はいないでしょう。
しかし、マンガの作者はこういうことを考えて1コマ1コマ描いてるかもしれないと思うと、そう簡単には聴き流せないことだなと私は思う訳です。皆さんはどうでしょうか?
そして大塚がその著書で述べたのは、第二次世界大戦の悲惨な体験が、マンガに対して死の表現をすることを、キャラクターに対して「傷つく身体」を持つことを要請するものとなった。戦後マンガの始まりは、非リアリズム的な記号的身体を持つマンガのキャラクターも、リアリズム的な傷つく身体を持った存在として描くことができる、ということを発見したと大塚は考えている。
私なりの補足ですが、昔のミッキーマウスの映像を見たことはありますでしょうか?よくある高いところから落ちるくだり、生身の人間であれば大怪我間違いなしであるが、記号的身体を持ったキャラクターであれば死ぬことはない。怪我をしたとしても次のシーンになればケロッと回復している、というあれに近いのではと思います。
手塚治虫以降、キャラクターというのは非リアルであるにも関わらず、傷ついたり、死んだりしてしまう身体というのを手に入れたというのがポイントです。
さて本題の「ジョーの命題」です。ジョーとは言わずと知れた「あしたのジョー」のことです。さて「ジョーの命題」とは何でしょうか?同書から引用すると以下のような説明になります。
「登場人物たちは傷つく身体を持っているという前提のもとで傷つかない身体を実現せよ」という課題のことを呼びます。
※2章2節「ジョーの命題」と「科学」の相克より
さて、これまたどういうことでしょうか?よくもまぁ、こういうことが思いつくものです。
私はリアルタイム世代ではないのですが、まずざっくりと「あしたのジョー」のあらすじを説明させて下さい。『あしたのジョー』の主人公である矢吹ジョーはボクシングの素人でしたが、丹下段平指導のもと理論的にボクシングを学び強くなっていきます。彼の必殺技は「クロスカウンター」。そして数々のライバルとの戦い、力石徹との死闘、ホセ・メンドーサとの最終戦を迎えます。
ジョーが最後に戦ったホセ・メンドーサとの戦いにおいて、ある種の理論的転倒が生じました。ジョーはホセにどんなに殴り倒されようとも、何度も起き上がって試合を続けます。「彼は不死身なのか?」とホセに感じさせるもので、ホセの理解と想像を超えた気迫があるものでした。戦いの最中、ジョーは過去に戦ったライバルたちの必殺技を繰り出してホセを苦しめます。ライバルたちは自分の必殺技がホセにヒットするのをみるや喜び、試合中にジョーと過去のライバルたちの間に精神的なつながり(絆?)のようなものが生じました。
最終的にはジョーはホセに敗れ有名な「真っ白に燃え尽きた」シーンが描かれるのですが、その時にジョーがみせた不死身(傷つかない身体)の様子こそが、ジョーが起こした奇跡と呼べるものになります。
ここでジョーが奇跡を起こす原動力になったものは、ジョーとライバルたちの間に生じた「絆・友情」といったものが大きく関わっており、「傷つく身体」の中から「傷つかない身体」が出現する奇跡は主人公たちの絆(足立によれば信条の正しさ)から生まれると足立は分析しています。そして、以下のような循環論法的な構図が生じると足立は指摘しています。
週刊少年ジャンプが掲げる3原則が「友情・努力・勝利」なのは有名な話ですが、少年漫画における基本フォーマットとして友情や(仲間との)絆が機能する点は欠かせない要素です。上記に挙げた「主人公の信条」というものの多くが「友情」「愛」「絆」という言葉に置き換えても差しさわりないものであり、そしてその尊いものを守るために命がけの戦いを挑み、(仲間たちのためであれば)大きな犠牲をも厭わない。むしろ絆が価値あるものであればあるほど犠牲も大きくなる、そんな循環の関係性が生じるのが2つ目の循環である。
つまり、仲間との絆、ひいては主人公の信条は犠牲を支払ってでも守りたいものであり、その過程で本来「傷つく身体」であるはずのものが「傷つかない身体」に転じる奇跡を起きる。それによって強大な敵を打ち砕き、結果的に主人公たちが信じた「絆」や「志」というのが犠牲を支払うに値するだけの価値があるものとして正当化されるという構図にある。
前置きが長くなってしまいましたが、今回記載した内容を踏まえ以下のようなトピックをベースに「炎柱・煉獄杏寿郎」について考えていきたい。
・煉獄杏寿郎が担った役割とは?(何のための犠牲だったのか?)
・煉獄杏寿郎が起こした奇跡とは?
・煉獄杏寿郎が残したもの
沼にハマっていそうで怖い。納得いく結論を導き出せるのかどうか不安になってきた。。吐きそう。。