買い物をしたら代金が 2,019円だった。おう、これは令和元年、と言うか、今年ではないか、と思ってしまう。これが 2,020円であったなら東京オリンピックを連想したかもしれない。
しかし、例えば 1980年代には 2020 という数字を見ても、それを年号だと思ったことはなかった。それまでに自分は死んでいるだろうと思っていたわけでもないが、その頃の自分を想像できないくらいの先の話で、だから年号だとは感じなかった。
これも今日まで生きてきた結果なんだなと思う。
我々は生きて行く中でどんどん数字に意味を見出してしまう。例えば 513 という数字を見ると、それは僕が関西で最後の 17年間を過ごしたマンションの号数だ。
あるいは 5月13日を出す人もいるだろう。僕にとっては 5/13 は特に記憶に残っている日ではないので日付とは結びつかない。でも3桁の数字や 1231以下の4桁の数字を月日と結びつけるのもよくあることだ。それは誰かの誕生日であったり何かの記念日であったりする。
いや、そんな個人的なものばかりではなく、例えば 1.17 なら阪神淡路大震災だ。9.11 なら NY の同時多発テロだ。そして、3.11 なら東日本大震災だ。
そして、そんな風に小数点をつけると、思い出すのは円周率 3.14 だ。そんな風に勉強中に憶えてしまった数字もある。ネイピア数 e ≒ 2.718281828 とか。
思えば僕らは学校でどれほどたくさんの数字を憶えさせられたろう?
歴史の年号は語呂合わせで憶えた。645年、無事故で行う大化の改新とか、794年、啼くよウグイス平安京とか、1492年、東洋の国と思ったコロンブスとか…。悉く五七調か七五調になっているのは時代的なものか(笑)
まだまだある。人生のあちこちのポイントで、いろんな数字にいろんな刻印が押されてきた。僕らの世代なら 666 と言えばオーメン、747 と言えばジャンボ、777 と言えばフィーバー、4126 と言えばハトヤだった。365円と聞くと意味もなく1日1円かと換算してしまう。404 NOT FOUND。
ノスタルジー溢れる記憶であるか単に無味乾燥な知識であるかはともかくとして、僕らの脳内でいろんな数字が特別な意味を持ってどんどん定着してしまう。
年を取るってそういうことなのかな、と最近感じている。