愛の中に、男性は、、守っていく。育んでいく。そして、その者たちをほんとうの意味で愛し、外敵から守っていくという、そのようなことがあるのです。
子どもには子どもの生き方があると、子どもには神より与えられた価値ある素晴らしい個性があるのだと。そのようなことを思い、子どもにゆとりをもって見守っていただきたいのです。
そして、それをぜひ応援してあげていただきたいのです。
それができるのはまた、父親たちであるのかもしれません。
先ほどのように、問題がこじれて引きこもりになってきたとき、その時にはもう、母親たちでは手に負えない状況になっているのです。その時に出てくるのは父親たちであるのです。
腕っ節の出てきてしまった思春期の子どもたちに、体当たりで親の愛を見せていく。ほんとうに愛しているからこそ、お前のことを叩くのだ。ほんとうの意味でお前と向き合いたいのだ。それが愛なのだということを、体でぶつけて思春期以降に子どもたちに愛を伝えられるのは、父親の役目かもしれません。
愛の反対派無関心です。冷淡さであります。憎しみではないのです。愛してほしい。自分のことを見てほしい。振り返ってほしい。関心を持ってほしい。それが子どもたちの叫びであります。
だけどそうではなくて、「何か困ったことがあったら聞いてごらん」と。
そのように一言、言ってあげるだけでも、娘はうれしいものなのです。
あまりしょっちゅうまとわりつくと、父親は嫌がられますので、娘さんに対しても、やはり大きな大きな見守りであっていただきたいのです。
そして、その時に全員でその子どもを責めてはいけません。
もしみんなが甘やかしているのなら、お父さんが出ていって叱ってあげてください。そのバランスが大事なのです。
それは母親たちが特に気をつけねばならないことなのです。
社会に出て、学校の中においても、ひじょうに不当なイジメとかに遭ってきたときに、やはり「大丈夫」と言って受け止めてあげるところがひとつあれば、無関心さがなければ自殺しなかったという子どもはたくさんいるのです。
「なら、学校に行かなくてもいいんだよ」と。
それはさっきの引きこもりとは違うのです。やはり逃げ場をひとつ用意してあげるということ。
外の社会に出て行き場がなくなったときに、学校に行かなくてはいけないじゃないか、せっかく名門校に入ったなら行かなくてはだめじゃないか、お前は挫折者なのか、いいから学校に行けと。
それを無関心の自分の我欲の中で、子どもを突き放してしまったのならば、子どもは行き場がなくて、最後は自殺してしまうとか、とんでもない傷害事件を起こしてしまうとかいう問題になるのです。
その子自体が社会の中において、学校の中において、不当に傷ついたときに、愛というのは、愛の巣というものが家庭だよと。
いいから黙って、帰って来て泣いているのを黙って抱きとめてあげるだけでも、ぜんぜん子どもは違うのです。何も言わなくていいのです。
日向(卑弥呼)「日本神道の女性霊1」より