比叡山延暦寺には、「艮岳の鬼門柱」(うしとらだけ の きもんばしら)という、なにやらものものしくて、中二心をくすぐる俗称でよばれている、相輪樘(相輪橖)(そうりんとう)という塔があります。
実際に、この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))を見たときには、その存在感や、形状や装飾デザインの秀麗さ、あたりの静謐な空気感、などの印象からなのか、かなりの迫力をかんじました。(この下に列挙している写真が、「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))の写真です。)
比叡山延暦寺は、日本天台宗の総本山であり、日本天台宗の開祖である伝教大師最澄が開創した寺院です。そして、この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))は、もともと、その最澄が創建したものです。つまり、この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))は、延暦寺の開祖である最澄がつくったものであり、とても由緒ただしい名所旧跡でもあるのです。
(※注記: この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))は、これまでに、廃絶、再建、改修などをへているので、現在のものは、最澄が生きていた時代のものそのものではありません。)
この「鬼門柱」(相輪樘(相輪橖))の具体的な所在地は、比叡山延暦寺の西塔地区の本堂である釈迦堂の裏(北側)の丘の上です。ちなみに、この相輪樘(相輪橖)(そうりんとう)の役割としては、宝幢(ほうどう)(幡幢(はたほこ))としての役割があるそうです。
この下の動画は、この相輪樘(相輪橖)(そうりんとう)や、その周辺の風景、相輪樘(相輪橖)への道のりなどを撮影した映像です。(なお、映像のなかでは、なにも話していないので、終始無言です。)
この下の引用文は、比叡山延暦寺の西塔地区にある相輪樘(相輪橖)(そうりんとう)が、「鬼門柱」(きもんばしら)と呼ばれている、ということについての記述がある文献からの引用です。
ちなみに、下記の引用文のなかの「艮岳」(うしとらだけ)という言葉は、本来は、比叡山地のなかの最高峰である大比叡峰のことを指す言葉です。ですが、下記の引用文のなかの「艮岳」という言葉は、広い意味での「比叡山」(比叡山地)(比叡山延暦寺の境内)というような意味でつかわれているようです。
「相輪樘は釈迦堂の側に在り、俗に艮岳の鬼門柱と曰ふ、古人謂ふ所の宝幢即是なり。」
(出典: 「西塔」, 「近江(滋賀)滋賀郡」, 『大日本地名辞書 第2巻 上方』, 653ページ1段目.)
「〔相輪橖〕(重文・貞観)は俗に「鬼門柱」ともよばれる。釈迦堂の後方山林中にある高さ約一〇メートル、青銅製の相輪で、塔内に法華経・大日経など二十三部五十八巻を納める。
この相輪は普通の三重・五重塔上の九輪とちがい、心柱上につけた形、いいかえれば塔の木造部分が柱状になった経幢の一種である。明治二十八年(一八九五)の改修によって旧観を一新した。」
(出典: 竹村俊則『昭和京都名所図会 3 洛北』, 166ページ.)
相輪樘(相輪橖)(そうりんとう)についてのもっとくわしい情報として、武覚超さんの著書である『比叡山諸堂史の研究』という本のなかの、相輪樘についての解説の文章を紹介したいとおもいます。この下の引用文が、その文章です。
(23) 相輪樘(宝幢院旧跡)
釈迦堂の背後(北東)にあり、もと「十六院」の一つである宝幢院の中の一施設であったが、今は宝幢(相輪樘)のみ現存する。
相輪樘については、平安末か鎌倉初期の古写本とされる仁和寺所蔵『叡山宝幢院圖幷文』(西村冏紹師「比叡山相輪樘について」『伝教大師研究』〈昭和四十八年六月〉所収)によれば、弘仁十一年(八二〇)九月、最澄はみずから書写した法華経や大日経を初めとする二二部五八巻の経典と銘文を納めた相輪樘を創建したのである。高さは四丈五尺(一三・六四メートル)からなり、頂上に金銅の相輪(九輪)があるによって相輪樘と称されるという。そして頂上の相輪樘自体は高さ三尺三寸(一メートル)で九層に分かれ、各層の形は盤のごとくであり、層毎には摺本の無垢浄光等の真言を納めた一一の金銅小筒が付けられ、最下層には一一の宝鐸が懸けられていたという。なお輪樘の下、幢の頂上には金銅製の桶があり、ここに最澄の樘銘や写経真言名等が刻まれていたと伝えている。
〔中略〕
なお弘仁十一年の最澄創建の相輪樘は、円澄座主より西塔を付属された恵亮によって、宝幢院としてさらに発展を遂げることになる。宝幢院は法華延命宝幢院と呼ばれ、藤原良房の帰依もあって惟仁親王(清和天皇)の御願寺として嘉祥年中(八四八~八五一)に恵亮が相輪樘の傍らに新たに堂宇を建立したものである(『阿娑縛抄』「諸寺縁起」大日本仏教全書六○・二七九c)。
恵亮は惟仁親王生誕から天皇即位後に至るまでの祈禱守護の師であり、宝幢院はそのための道場として出発したのであった。『叡岳要記』(群書類従二四・五四五上)等は、本尊には千手観音をはじめ不動尊・毘沙門天の三体の等身像を安置して、惟仁親王の御即位を祈り奉ったと伝えている。そして貞観元年(八五九)八月の文徳天皇一周忌には文徳天皇の冥福と清和天皇の延命長寿を祈ることを誓い(「年分度者上奏文」)、恵亮の上奏により宝幢院に涅槃経と維摩経の年分度者二名が認められた(『日本三代実録』前篇・新訂増補国史大系・三七)。さらに貞観二年(八六〇)の文徳天皇三回忌には最澄創建以来四一年ぶりに宝幢の改築が行われ、新たに無垢浄光陀羅尼八七一本、仏頂尊勝陀羅尼四二本が樘中に安置された(『貞観二年八月廿七日改立幢縁起』仁和寺蔵「叡山宝幢院圖幷文」・西村冏紹師「比叡山相輪樘について」『伝教大師研究』一〇五一~五二所収)。また貞観十八年(八七六)三月には勅して宝幢院に八僧を置くことを永例としている(『日本三代実録』後篇・新訂増補国史大系・三七二)。その後、延喜十九年(九一九)十月にも改修がなされている(『延喜十九年十月十九日改立幢縁起』西村冏紹師「比叡山相輪樘について」『伝教大師研究』一〇五二~五五所収)が、さらに良源は天元二年(九七九)宝幢院を改造し、(『慈恵大僧正拾遺伝』続天台宗全書・史伝二・二〇七下)、また永観二年(九八四)には、奥州国司の藤原為長らの援助を得て露盤宝鐸を新たに造って、宝幢(相輪樘)を再興している(『慈恵大僧正伝』続天台宗全書・史伝二・一九八上)。
なお相輪樘のすぐ東側に伊勢・八幡・賀茂・鹿島・熱田・山王の六所大明神をお祀りした六所社があるが、これは恵亮が宝幢院建立にあたって鎮守としてここへ勧請したものと伝えている(『山門堂舎』群書類従二四・四八一下~四八二上)。
宝幢院の堂宇は、焼き討ち直前の古絵図にも描かれていないし、室町初期の至徳四年(一三八七)亮海撰述の『諸国一見聖物語』にも「宝幢院旧跡」とあるので、相当早くに廃絶したものと考えられるが、宝幢院の中心施設であった相輪樘は、良源以後では治承三年(一一七九)に隆雲が改鋳した記録(『天台座主記』一〇七)があり、焼き討ち後においては貞享二年(一六八五)、寛保二年(一七四二)、天明元年(一七八一)、明治二十九年(一八九六)、昭和四十五年(一九七〇)などの数度の改修を経て現在に至っている。
(出典: 武覚超『比叡山諸堂史の研究』, 236~238ページ.)
ちなみに、比叡山延暦寺は、酒呑童子(酒天童子)の説話の祖型がうみだされた場所だとかんがえられています。それもあってか、比叡山延暦寺のなかや、そのちかくには、鬼にまつわる伝承がある名所旧跡が複数あります。
それらの、「比叡山延暦寺の鬼スポット」については、この下で紹介している、「比叡山めぐり鬼紀行」の記事や、「鬼王巡礼 : 酒呑童子八千箇所めぐり」の地図、などの情報が参考になるかもしれません。
参考1: ブログ記事「Q&A:「比叡山延暦寺の酒呑童子ゆかりのおすすめ鬼スポットを教えてくださいな♬」」
参考2: フリーペーパー「通信『 鬼の絵詞』」の「第十三号 2019.3発行」に寄稿した「比叡山めぐり鬼紀行」の記事が掲載されているPDFファイル
参考3: ブログ記事「鬼王巡礼:酒呑童子八千箇所めぐり(酒呑童子やちかしょめぐり)」
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」