日本書紀 巻第十七
男大迹天皇(おほどのすめらみこと) 継体天皇(けいたいてんのう)
男大迹天皇 更(また)の名(みな)は彦太尊(ひこふとのみこと) は、誉田天皇(ほむだのすめらみこと)の五世(いつつぎ)の孫(みまご)、彦主人王(ひこうしのおほきみ)の子(みこ)なり。母(いろは)を振媛(ふりひめ)と曰(まう)す。振媛は、活目天皇(いくめのすめらみこと)の七世(ななつぎ)の孫なり。天皇(すめらみこと)の父(かぞのみこと)、振媛が顔容姝妙(かほきらぎら)しくして、甚(はなはだ)だ媺色有(うるはしきいろあ)りといふことを聞(き)きて、近江国(あふみのくに)の高嶋郡(たかしまのこほり)の三尾(みを)の別業(なりどころ)より、使(つかひ)を遣(つかは)して、三国(みくに)の坂中井(さかなゐ) 中、此(これ)をば那(な)と云(い)ふ。 に聘(むか)へて、納(めしい)れて妃(みめ)としたまふ。遂(つひ)に天皇を生(う)む。
(出典: 「巻第十七 男大迹天皇 継体天皇」, 坂本太郎 [ほか]校注 (1994年), 『日本書紀 3』, 岩波文庫, 岩波書店, 162ページ.)
男大迹天皇(おおどのすめらみこと)(更(また)の名は彦太尊(ひこふとのみこと))は、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)〔応神天皇(おうじんてんのう)〕の五世の孫で、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子である。母を振媛(ふるひめ)と言う。振媛(ふるひめ)は、活目天皇(いくめのすめらみこと)(垂仁天皇(すいにんてんのう))の七世の孫である。天皇〔継体天皇〕の父〔彦主人王(ひこうしのおおきみ)〕は、振媛(ふるひめ)の容貌が端正で大そう美人であるということを聞いて、近江国(おうみのくに)の高島郡(たかしまのこおり)〔滋賀県高島市〕の三尾(みお)の別邸から、使者を遣(つかわ)して、三国(みくに)の坂中井(さかない)〔福井県坂井市三国町〕(「中」の字は「な」と読む)に迎え、召し入れて妃(きさき)とされた。そして、天皇〔継体天皇〕を産まれた。
(参考文献: 「巻第十七 継体天皇 男大迹天皇」, 宇治谷孟, (1988年), 『日本書紀(上)全現代語訳』, 講談社学術文庫, 講談社, 346ページ.)
(参考文献: 「日本書紀巻第十七 男大迹天皇 継体天皇」, 井上光貞(監訳), 佐伯有清(翻訳), 笹山晴生(翻訳), (2003年), 『日本書紀 2』, 中公クラシックス, 中央公論新社, 181ページ.)
現存最古の酒天童子(酒呑童子)の伝説(説話)が描かれている、香取本『大江山絵詞』(かとりぼん・おおえやまえことば)という絵巻物があります。
ぼくはいま、その絵巻物に描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説について研究しています。
香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)(また、酒天童子が変化した楠(くすのき))と、『長谷寺縁起絵巻』(はせでらえんぎえまき)のなかで描かれている、祟りたたりをなす霊木(御衣木(みそぎ))の楠には、たくさんの共通点があります。
そうした、たくさんの共通点があることから、香取本『大江山絵詞』の絵巻のなかで描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)は、『長谷寺縁起絵巻』の伝説と、なんらかのつながりがあるのではないかとおもいます。
その『長谷寺縁起絵巻』に描かれている物語では、「継体天皇(けいたいてんのう)十一年のときに、暴風雨によって洪水が起こり、楠(くすのき)の霊木(巨木)が、近江国(おうみのくに)の高島(たかしま)にある白蓮華谷(びゃくれんげだに)から流出した」とされています。また、絵巻のなかのその場面には、その楠(くすのき)の霊木(巨木)を見守る守護者として、三尾明神(みおみょうじん)という神が登場します。
『長谷寺縁起絵巻』のなかに登場する、「近江国の高島」や、「三尾明神」や、「継体天皇」という言葉からは、かつて、近江国の高島の地で大きな権勢を誇っていた三尾氏(みおうじ)(三尾君(みおのきみ))の一族のことが連想されます。
三尾氏(三尾君)の一族は、継体天皇(けいたいてんのう)を出した氏族でもあります。
近江国(滋賀県)の高島(高島市)にある、三尾神社(みおじんじゃ)(滋賀県高島市安曇川町田中)や、水尾神社(みおじんじゃ)(滋賀県高島市拝戸)などの神社に祀られている三尾明神という神は、三尾氏(三尾君)の一族の氏神のような存在であったようです。
このことから、三尾氏(三尾君)の一族は、『長谷寺縁起絵巻』に描かれている物語と、なんらかのつながりがあるのかもしれません。
もしそうだとすると、三尾氏(三尾君)の一族と、香取本『大江山絵詞』の絵巻に描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説(または、その原型となった物語)のあいだにも、なんらかのつながりがあるのかもしれません。
下記の引用文は、山尾幸久さんの『古代の近江 : 史的探究』 という本のなかの、継体天皇(けいたいてんのう)を出した三尾氏(みおうじ)(三尾君(みおのきみ))の一族について説明されているところの文章です。
継体は、近江の高島で誕生した。しかし、すぐに父が亡くなったので、母と一緒に母方親族の本拠地に戻り、還暦近くまで越前で過ごした。その地は越前の三国だった。越前「三国の坂中井[さかない]」の「高向」(「継休紀」)、越前「三国の坂井県」の「多加牟久村」(『上官記』逸文)とある。群臣の総意を体して擁立の使者が向った先も「三国」であった。
〔中略〕
岸俊男氏(『三国町史』の「三国湊と東大寺荘園」)が先鞭をつけられ、米澤康氏(「三尾君氏に関する一考察」)が総括的に再検討された通り、「水尾」「三尾」の地名は、継体が誕生した近江の高嶋だけではなく、継体の母親の出身地越前の坂井にもある。これを自然地形による偶然の一致と見る説は課題を捉え損なっている。
もともとは越前の地名だった。越前三尾氏の一部が近江の湖西に移住したので、高嶋にも「三尾」の地名が生じた。越前の「三尾里」「坂井郡水尾郷」「三尾駅」などは、越前三尾氏が遺した自らの痕跡である。
「ミヲ」を河川の流末(高島の鴨川の流末)とする説明は間違いである。ミヲはミヲツクシ=水緒つ串(船頭に航路を知らせる杭。澪標。大阪市の市章は水面に出ている澪標を表している)のミヲ、「水緒」「水脈」のことである。船が航行に使う、大きな川の深い流れである。九頭竜川が即ちミヲに他ならない。
二本松山古墳(五世紀第4四半期)に続く盟主的首長級が近江の高島に進出したので、近江にも「三尾」の地名ができた。越前の三尾一族が近江の湖西に進出してきたのはフリヒメの興入れの時、五世紀の第4四半期と思われる。継体は迎えられたとき既に五十七の老人で、亡くなったのは八十二、当時としては珍しい高齢だったという『書紀』の記載が流布している。『古事記』が五二七年に亡くなった時「御年、肆拾参歳」(四十三歳)と書いているのは、殆ど知られていない。しかし常識的にも、『古事記』の信頼度からも(継体の父母の名を書いていないことも含め)、また五〇三年の隅田八幡鏡銘からも、継体は、五〇三年当時未成年で誕生は五世紀の末近く、フリヒメが越前三尾氏の人々と共に近江に興入れしてきたのは五世紀第4四半期のどこかであったと考えられる。
近江には、高島郡に「三尾郷」(高島市南部)、壬申の乱の記述に出てくる「三尾城」(長法寺山の朝鮮式山城)があった。「水尾神社」や「三尾駅」は高島市高島町音羽・拝戸辺りにあった。「三尾の勝野」(『万葉集』七 ― 一一七一)はそのまま今日に遺っている。
ミヲの地名や族称の発祥地は越前だが、始祖として祀る祖神(おやがみ)が出現した六~七世紀には、三尾一族の中心集団は近江にいた。三尾氏の祖神磐衝別[いわつくわけ]を祀る水尾神社が越前になく近江に鎮座しているのはそのためである。
『古事記』は垂仁天皇の子の「磐衝別王」を「羽咋[はぐい]君・三尾君が祖ぞ」としている。『書紀』も垂仁の皇子「磐衝別命」を三尾氏の祖とし、景行の妃は「三尾氏の磐城[いわき]別」の妹だとしている。このほか『先代旧事本紀』(『旧事紀[くじき]』)の「国造本紀」にも三尾君氏が現れている。加我[かが]国造(道君氏)は「三尾君の祖の石撞別[いわつくわけ]命」が任用されたのだとし、羽咋国造(羽咋君氏)には「三尾君の祖の石撞別命の児石城別王」が任用されたとする。また『上宮記』逸文によると、フリヒメの生母(継体の母方の祖母)は「余奴臣の祖」、つまり江沼国造家江沼臣氏に他ならない。
北陸南部は八二三年に越前国から加賀国が分立したので(『日本紀略』弘仁十四年三月一日条、六月四日条)、それ以前について書く。フリヒメは出自は越前三尾君で、本拠は越前の坂井郡である。だから、坂井から北へ、江沼・加賀・羽咋と、四郡の地は互いに隣接していた。そしてそれぞれの地は白方(串方)・柴山潟・河北潟・邑知潟という天然の良港(潟湖[せきこ])を擁していた。これらの族集団の同祖同族の共通系譜の観念を支えていたのは、沿岸海上交通による、恒常的婚姻関係など首長層の濃密な人的物的ネットワークなのであった。
その首長結合の核、北陸南部の盟主、そんな三尾君がもともとから琵琶湖西岸の高島郡に発祥し、発展したとすると右の関係は歴史的説明を放棄せざるを得ない。しかし米澤康氏の論考によって、九頭竜川を族称とする土着の名族三尾君氏が、四~五世紀には継続して福井平野の盟主墓、大型前方後円墳を築いていたと判ったのであった。
(出典: 山尾幸久 (2016年) 「二、三国真人と三尾君」, 「第三章 継体天皇と古代の近江」, 「Ⅰ 古代近江の史的分析」, 『古代の近江 : 史的探究』, サンライズ出版; 44ページ, 47~49ページ.)
「継体天皇の胞衣塚(えなづか)」というのは、継体天皇が生まれたときの胞衣(えな)(胎児を包んでいた膜や胎盤など)を埋めたという伝承がある場所です。
継体天皇の胞衣塚(えなづか)
(滋賀県高島市安曇川町三尾里)
「安曇陵墓参考地」(あどりょうぼさんこうち)は、伝承では、継体天皇の父親である、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の墳墓だとされている場所であり、「王塚」や「ウシ塚」とも呼ばれています。
安曇陵墓参考地(あどりょうぼさんこうち)
(王塚 / ウシ塚)
(彦主人王(ひこうしのおおきみ)の墳墓)
(滋賀県高島市安曇川町田中)
三重生神社(みおう神社 / みよう神社)は、継体天皇の父親である、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の別業(別邸)があった場所だという伝承がある場所です。
また、三重生神社は、継体天皇の母親である振媛(ふるひめ / ふりひめ)が、継体天皇を含む三つ子を生んだことにちなんで、「三ツ子の母の社」と呼ばれていたこともある神社です。
三重生神社の参道にある石碑には、つぎのような文章が記されています。
振媛が三子をご出産になるとき、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあり、「この度天より授かる子は天孫の大いなる迹[あと]をふむべき男子なり」と。そこで山崎社(三尾神社)の拝殿を産所として南天に祈られ、また、王も自ら北の仮社で北極星にお祷りされたので、彦人、彦杵、彦太の三子を安産されました。
(出典: 三重生神社の参道にある石碑の文章より)
三重生神社(みおう神社 / みよう神社)の鳥居がある場所から南南西の方角には、安曇陵墓参考地(王塚 / ウシ塚)(継体天皇の父である彦主人王(ひこうしのおおきみ)の墳墓)がある墳丘(墳墓の小山)が見えます。
式内社三重生神社
御祭神 彦主人王 ・ 振媛
境内社 足羽神社 ・ 気比神社 ・ 垂井神社
例祭日 四月二十九日
縁起
彦主人王は、応神天皇の五世の孫にして、よく神道を修められ、三國の坂中井から垂仁天皇七世の孫振媛を迎えて妃となさいました。当社はこの二神を奉祀しています。
王は、余暇に山狩や河漁を楽しまれたと伝えられています。
振媛が三子をご出産になるとき、彦主人王の夢に三尾大明神のお告げがあり、「この度天より授かる子は天孫の大いなる迹(あと)をふむべき男子なり」と。そこで山崎社(三尾神社)の拝殿を産所として南天に祈られ、また、王も自ら北の仮社で北極星にお祷りされたので、彦人、彦杵、彦太の三子を安産されました。
故にこの社を三重生神社と呼ばれるようになり、今に安産の神として崇められる由縁です。
御子が五歳のとき、彦主人王が薨(みまか)られたので振媛は彦杵と彦太をお連れになって越前高向館にお帰りになり、養育されていましたが、十三年後、振媛も薨られました。二柱とも二月十八日が御命日であり、明治維新までこの日を例祭日としていました。
長男彦人王(天迹部皇子(あまとべのみこと))は、この地で成長され紃史(しし)(刺史)となって北越五ヶ國を治められました。三男彦太尊は、後の二十六代継体天皇(男大迹の天皇(をおほおどのすめらみこと))となられました。
勅使の詠まれた御歌(古来勅使参向の社)
「近江なるうしの祭りのこととへば
如月なかば雪は降りつつ
近江のやうしの祭りのこととへば
志らゆう花を雪とまかへて」
(出典: 三重生神社の参道にある石碑の文章より)
三尾神社旧跡(安産もたれ石)
「三尾神社旧跡」は、かつて、三尾神社があった場所です。そのため、ここには、「三尾神社舊址」(「三尾神社旧址」)という文字が刻まれた石標が立っています。
また、ここには、継体天皇の母親である振媛(ふるひめ / ふりひめ)が、継体天皇を含む三つ子を生んだ場所である産屋があったという伝承があります。そのお産のときに、振媛がもたれかかったという「安産もたれ石」が、今も残っています。
この「三尾神社旧跡」の場所には、かつて、産所村(さんじょむら)という村がありました。その村が、大正時代に廃村になるまでは、ここに、三尾神社のお社(小祠)があったそうです。その三尾神社のお社は、この近くにある田中神社(滋賀県高島市安曇川町田中)の境内に移設(合祀)されて、安田社という名称に変わったそうです。
(参考文献: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 354ページ.)
ですが、2020年7月に、ぼくが田中神社(滋賀県高島市安曇川町田中)を訪れたときは、田中神社の境内にある境内社のなかには、安田社という名前のお社は存在しないようでした。ただ、田中神社の本殿の横に並んでいる複数の境内社(小祠)のなかに、「三尾神社」書かれた扁額が掲げられているお社(小祠)がありました。ですので、いつのころのことかはわかりませんが、おそらく、田中神社に移設(合祀)された当初は、「三尾社(三尾神社)」から「安田社」という名称に変更されたものの、そのあと、ふたたび、「安田社」から「三尾神社」という名称にもどされたのではないかとおもいます。
三尾神社旧跡
三尾(みお)神社は山崎命(さまざきのみこと)の創祀(そうし)と云い伝えられます。山崎命は代々神主として当社に仕え彦主人王に天成神道を教授されました 彦主人王(ひこうしおう)のお妃(きさき)振媛(ふりひめ)さまがここに産屋(うぶや)を営み、三皇子をお産みになられましたが その末子にあたられる彦太王は、後に第26代継体天皇となられます。
当社には神代文字書「秀真伝(ほつまつたえ)」四十巻と三尾大明神本土記が伝わりました。
お社は大正四年十二月五日田中神社境内に遷座(せんざ)しお祀(まつ)りしています。
この旧跡には振媛さまがお産の時もたれられたと伝えられる「もたれ石」があり 今でも妊婦がこの石を手で撫(な)で自分の腹をさすって安産を願う慣(なら)わしです。
(出典: 三尾神社旧跡の解説板の文章より)
鴨稲荷山古墳(かもいなりやま こふん)については、山尾幸久さんが、『古代の近江 : 史的探究』の本のなかで、この下の引用文のように述べておられるように、「福井県の二本松山古墳の次世代の首長級、近江三尾氏の鼻祖、フリヒメの兄ツノムシを葬った可能性がある」、ということです。つまり、鴨稲荷山古墳は、継体天皇の母親である振媛(ふるひめ / ふりひめ)の兄であるツノムシの墳墓である可能性があるようです。
ちなみに、この下の引用文のなかの「継体の父親のウシ王」というのは、彦主人王(ひこうしのおおきみ)のことです。
継体の父親のウシ王は、伊香郡物部[ものべ]の本拠地の外の高島郡三尾に、湖上運漕と鉱石製鉄との経営拠点(「別業」)をもっていた。継体はそこの邸宅で生まれ育った。
ミヲは水緒・水脈の意で九頭龍川のことで、越前三尾氏は四、五世紀の福井平野の首長結合の頂点に立つ盟主であった(松岡古墳群・丸岡古墳群)。その越前三尾氏の中心の一部が湖西に移動してきたのはフリヒメの結婚の時、五世紀第4四半期と思われる。その頃から越前三尾氏の祖神は近江の三尾で奉斎されることとなった。高島郡の地名ミヲと水尾神社との起源である。
滋賀県の鴨稲荷山古墳は福井県の二本松山古墳の次世代の首長級、近江三尾氏の鼻祖、フリヒメの兄ツノムシを葬った可能性があるだろう。
(出典: 山尾幸久 (2016年) 「水尾神社」, 「六、神社」, 「Ⅱ 古代近江の諸相」, 『古代の近江 : 史的探究』, サンライズ出版, 286~287ページ.)
田中神社(境内社:三尾神社)
滋賀県高島市安曇川町田中にある田中神社は、かつて、尾神社旧跡(滋賀県高島市安曇川町田中)にあった三尾神社が移設された場所です。今でも田中神社の本殿の横に、そのとき移設された三尾神社の小祠が残っています。
この下の引用文は、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』という本のなかに記されている、橋本鉄男さんによる、水尾神社(みおじんじゃ)についての説明です。
鴨川の南方、岳山[だけやま](五六五メートル)の北麓に、鴨川・安曇川流域に開けた広い平野部を見はるかすように鎮座する。安曇[あど]川南岸から鴨川流域は古代豪族三尾君[みおのきみ]の本拠地で、鴨稲荷山古墳をはじめ多数の古墳が所在するが、当社の背後の山腹も後期古墳の群集地帯となっている。また『日本書紀』によれば、応神天皇の五世の孫彦主大[ひこうし]王は近江国三尾の別業に三国の坂中井[さかない]より振姫[ふるひめ]を迎えて妃とし、男大迹[おおど]王(継体天皇)が誕生したという。なお、『古事記』垂仁記には「石衝別[いわつく]王は、 羽咋君、三尾君の祖」とあり、『日本書紀』垂仁紀は「磐衝別命、是[これ]三尾君の始祖なり」と記している。
〔中略〕
訓み方の問題はともかくとして、当社が「水尾」「三尾」の両方に表記されていたことは明らかである。
(出典: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 353~354ページ.)
水尾神社は、もともと、南側にある河南社(こうなみしゃ)と、北側にある河北社(こうほくしゃ)の、2つの神社でした。ですが、河北社(こうほくしゃ)のお社が、1959年の伊勢湾台風の影響で、ぺしゃんこにつぶれてしまったので、河北社(こうほくしゃ)は、南側にある河南社(こうなみしゃ)に合祀されて、ひとつの神社になりました。その後、河北社(こうほくしゃ)のお社があった場所には、その名残として石標が立てられていたのですが、結局、それも河北社(こうほくしゃ)のすぐ近くを通っている「滋賀県道296号畑勝野線」の道路の道ばたに、移設されました。(このあたりの経緯については、ぼくが水尾神社を訪れたときに、水尾神社の神職の方から直接お話を聞かせていただきました。)
『高島郡誌』という本では、水尾神社の河南社(こうなみしゃ)と、河北社(こうほくしゃ)の、それぞれの祭神について、河南社(こうなみしゃ)(南本殿)の祭神は、磐衝別命(いわつくわけのみこと)であり、河北社(こうほくしゃ)(北本殿)の祭神は、比咩神(ひめがみ)であるとし、また、注記として、「従来南は猿田彦、河内の社と号し、北は天鈿女(あめのうずめ)命、河北の社と袮せり。されど三尾君の族が其祖を祀れるなり」と書かれているそうです。
(参考文献: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 354ページ.)
『式内社調査報告 第12巻 (東山道 1)』という本には、水尾神社の祭神について、「一応猿田彦、天鈿女命を考慮に入れながらも三尾君の祖神説に重点を置くことが現在の考へ方であらう」と書かれているそうです。
(参考文献: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 354ページ.)
この下の引用文は、江戸中期に、寒川辰清(さむかわ たつきよ)さんという人が書いた『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』という地誌に書かれている、水尾神社やその近辺のことについての記事です。
この下の引用文に書かれている情報は、まだ水尾神社が、河南社(こうなみしゃ)と、河北社(こうほくしゃ)の、2つの神社に分かれていたころの情報です。
○下拝戸(しもはいど)村 即水尾山の麓なり。
〔水尾(みを)神社〕下拝戸村にあり、即水尾山の麓也。川を隔てゝ二社あり祭神二座、南は猿田彦命河南社(かうなみのやしろ)と号す。北は天鈿女命、河北社(かうほくのやしろ)と号す。【延喜式】新名帳に所謂水尾神社二座 並名神大月次新嘗 是也。今両社の間五町を隔つ。相伝古昔三尾川両社の間を流る、故に河南河北の名ある也。此社地白髭山の尾続也、当社あるを以て後の山を水尾山と号し今三尾に作り、湖辺の出崎を水尾(みをが)崎といふ。古昔は社領も多く有りて繁栄なりしに、今は僅に其形のみ残れり。土俗誤りて白蓮山長谷寺の鎮守なりといふ歎息せざるべけんや。〔中略〕
〔頭註〕村社水尾神社 祭神磐衝別命、比咩神 式内高島郡三十四座の其二座並に名神大。
〔水尾川跡〕今の河南河北の間を流れ湖水に入る。其源は水尾山に出づといへど、今は川なく知る人なし。
〔水尾(みをが)崎〕三尾山の麓、湖水の出崎、志賀郡界より鴨川辺迄の総名也。或いは三尾浦と詠ず。
(出典: 寒川辰清(さむかわ たつきよ)(著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「下拝戸(しもはいど)村」, 「高島郡第一」, 「巻之九十二」, 『近江輿地志略 : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 1092~1093ページ. )
(注記: 引用者が、一部の漢字を、旧字体から新字体に変えました。)
水尾神社の由来や伝承については、『三尾大明神本土記』という古文書に書かれている話が知られています。『三尾大明神本土記』の作者は、和邇估容聡(わにこ やすとし)という名前の、近世の修験者だといわれています。和邇估容聡(わにこ やすとし)は、産所村(さんじょむら)という、滋賀県高島市安曇川町に大正時代まで存在した村にゆかりがあった人だそうです。
(参考文献: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 354ページ.)
ちなみに、かつて産所村(さんじょむら)があった場所には、いまは、「三尾神社旧跡」と呼ばれている場所があります。現在、その「三尾神社旧跡」の場所には、「三尾神社舊址」(「三尾神社旧址」)という文字が刻まれた石標と、安産もたれ石と、「三尾神社旧跡」についての解説板が立っています。
その「三尾神社旧跡」の場所には、産所村(さんじょむら)が廃村になるまでは、三尾神社のお社(小祠)があったそうです。その三尾神社のお社は、「三尾神社旧跡」の近くにある田中神社(滋賀県高島市安曇川町田中)の境内に移設(合祀)されたそうです。
和邇估容聡(わにこ やすとし)は、『三尾大明神本土記』をつくる際に、『秀真伝』(ほつまつたえ)という古文書を解読して、『三尾大明神本土記』をつくるにあたっての下敷きとしたそうです。『秀真伝』(ほつまつたえ)というのは、「秀真文字(ほつまもじ)」と呼ばれる記号文字で書かれた謎の古文書です。水尾神社には、古くから、その『秀真伝』(ほつまつたえ)という古文書が所蔵されていたそうです。
(参考文献: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 354ページ.)
この下の引用文は、『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 (山城・近江)』の本に記されている、橋本鉄男さんによる、水尾神社(みおじんじゃ)についての解説文のなかの、『三尾大明神本土記』についての解説や、水尾神社の祭祀の影響力が、高島のなかのかなり広い範囲にわたっていたらしい、ということについての解説などです。
(この下の引用文では、『三尾大明神本土記』という書名は、『本土記』という略称になっています。)
『本土記』(原漢文)は、まず豪族三尾君の系譜を述べ、「その最初は垂仁天皇の第一皇子磐衝別命で、この皇子が三尾の郷[さと]に来て、猿田彦命を三尾の神として祭り、そこに神戸[かんべ]を寄付された。ゆえにそこを拝戸[はいど]の宮という」と述べ、つづいて命の御子磐城別[いわきわけ]王のことに説き進み、さらに、「その後誉田[ほんだ](応神)天皇の十一人目の皇子速総別[はやぶさわけ]皇子が再びこの地へおいでになり、拝戸の宮をまたまた新しく造営して住まわれた。(中略)それ以後その宮殿を水尾の御所と呼ぶようになった」と記している。文脈に不明確なところもあるが、いちおう神社の起源伝承の体はなしている。
〔中略〕
なお、当社から東ヘ二キロ隔てた高島町音羽に大炊[おおたき]神社がある。もと当社の大炊殿の跡と伝えられ、社頭に残る大石は往時の一の鳥居の礎石であるという。また北東五キロの安曇川町青柳の太田神社(「大田神社」の項参照)の地は当社の御旅所とも伝え、付近に「古鳥居」「伏拝[ふしおがみ]」などの小字名をとどめるが、往古の祭祀規模の壮大さがしのばれる。
(出典: 橋本鉄男 (1986年) 「水尾神社」, 「湖西地方」, 「近江」, 谷川健一(編集), 『日本の神々: 神社と聖地 第5巻 山城・近江』, 白水社, 353~355ページ.)
天皇橋(てんのうばし)という名称は、継体天皇にゆかりのある鴨稲荷山古墳がこの橋のちかくにあることや、この橋のちかくにある天王社(天皇社)(現在の志呂志神社)などにちなんでつけられた名称だそうです。
(参考文献: 天皇橋(てんのうばし)の北詰めの親柱(おやばしら)の石碑に刻まれている文章.)
天皇橋のすぐ近くには、継体天皇の胞衣塚(えなづか)や、かつて、天王社と呼ばれたという志呂志神社や、継体天皇の母親である振媛(ふるひめ / ふりひめ)の兄であるツノムシの墳墓である可能性があるという鴨稲荷山古墳や、高島歴史民俗資料館、などがあります。
天皇橋(てんのうばし)
(滋賀県高島市鴨)
この辺りにはこの橋のほかにも「てんのう」と名のつく田や川や坂があります。
これは、近くに、継体天皇に関係の深い鴨稲荷山古墳や明治の始めまで天王社とも称したという志呂志神社などがあるため、この名前で呼ばれて来たものと思われます。
(出典: 天皇橋(てんのうばし)の北詰めの親柱(おやばしら)の石碑に刻まれている文章より)
古代直弧文(こだいちょっこもん)
橋の高欄のデザインは、鴨稲荷山古墳出土飾り大刀にみられる文様で斜十字に交わる二本直線と、その交点をめぐる弧線が基本となっていて直弧文と呼ばれ大和政権との密接な関係を示しています。
(出典: 天皇橋(てんのうばし)の南詰めの親柱(おやばしら)の石碑に刻まれている文章より)
志呂志神社(しろしじんじゃ)は、明治の始めごろまで、「天王社」(天皇社)と呼ばれることもあったそうです。
(参考文献: 天皇橋(てんのうばし)の北詰めの親柱(おやばしら)の石碑に刻まれている文章.)
ちなみに、「天王社」(天皇社)という名称のなかの「天王」(天皇)というのは、神武天皇(じんむてんのう)のことである、という説があるそうです。
(参考文献: 寒川辰清(さむかわ たつきよ)(著者), 小島捨市(校註), (1915年) 「天皇社」, 「鴨村」, 「高島郡第一」, 「巻之九十二」, 『近江輿地志略 : 校定頭註』, 西濃印刷出版部, 1094~1095ページ.)
志呂志神社は、天皇橋(てんのうばし)の南詰めのすぐ近くにあります。
志呂志神社(しろしじんじゃ)
(滋賀県高島市鴨)
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「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」