現存最古の酒天童子(酒呑童子)の伝説(説話)が描かれている、香取本『大江山絵詞』(かとりぼん・おおえやまえことば)という絵巻物があります。
ぼくはいま、その絵巻物に描かれている酒天童子(酒呑童子)の伝説について研究しています。
その過程で、天野文雄さんの「「酒天童子」考」という論文に出会いました。その論文のなかの下記の文章のなかには、「酒天童子(酒呑童子)の姿と、葛川明王院の碑伝(ひで)に描かれた護法童子の姿が、よく似ている」というような意味のことが書かれていました。
(※碑伝(ひで)というのは、修験者(密教行者)が、山岳での修行を終えたあとに建立する石碑や木碑(参籠札、卒塔婆)のことです。)
酒天童子なる存在も、当然、護法という視点から見直される必要があろう。すると、酒天童子こそ護法の属性をことごとく備えた存在であることに気づくのである。
〔中略〕
延暦寺の別院である葛川明王院には元久元年(一三〇四)の年記をもつ碑伝(ひで)が現存するが、そこに描かれている蓬髪裸身の護法童子は、まさに「身体肥壮」という体であって、『信貴山縁起絵巻』の剣の護法の体躯ともども、語法の典型を表していると思われる。ところで、諸絵巻に描かれた酒天童子の姿は葛川明王院の碑伝に描かれた護法と驚くべき類似を示している〔後略〕
(出典:天野文雄 (1979年) 「二、酒天童子と護法童子と」, 「「酒天童子」考」, 『能 : 研究と評論』, 8, 22ページ 1段目.)
上記の天野文雄さんの「「酒天童子」考」の論文を読んだことだけが理由のすべてではないのですが、息障明王院(葛川明王院)に興味を持ち、実際に現地に行ってみました。
※息障明王院(葛川明王院)は、滋賀県大津市葛川坊村町にあります。
そのときに、息障明王院(葛川明王院)の納経所で、下記の写真のような、「葛川護法尊」という題名がつけられた、護法童子のお札が、御朱印などとともに販売されていました。
下記の写真のお札に描かれている「葛川護法尊」の絵は、まさに、さきほどの天野文雄さんの「「酒天童子」考」という論文の末尾に、「付図」(参考資料)として掲載されていた「葛川明王院の碑伝に描かれた護法」の絵と、おなじものでした。
この下の写真は、息障明王院(葛川明王院)の納経所と、そこで販売されている「葛川護法尊」のお札や、御朱印などです。
また、白洲正子さんの『かくれ里』という本のなかの、「葛川 明王院」という章のなかに、「息障明王院(葛川明王院)の本堂のなかに、護法童子(葛川護法尊)の墨絵が描かれた卒塔婆(参籠札、碑伝(ひで)、木碑)がある」というような意味のことが書かれています。
この下の引用文は、白洲正子さんの『かくれ里』の本のなかの、その部分の文章です。
(※ちなみに、この下の引用文が書かれているページの次のページには、上記の写真に写っている「葛川護法尊」(護法童子)の絵と、おなじ絵が挿図として掲載されています。その挿図の下には「明王院本堂にある参籠札に描かれた護法童子像」と書かれています。)
境内の様子は、鎌倉時代の絵図とほぼ変りはなく、ただ地主神社が前方に遷っただけで、かつて神社があった所は、「地主平」と呼ばれている。絵図で見ると、そのまわりに、垣根のようなものが立っているが、これは行者たちが参籠したしるしの立札で、当時のものがたった一つ、本堂の中に残っていた。高さ四メートルに余る巨大な塔婆で、やはり桂の木で作ってあり、墨で護法童子が描いてある。本尊の不動明王と、ほとんど同じ姿のもので、これは相応が感得した影像を、桂の木に彫ったのをそのまま模したものに違いない。参籠の札も、時代が降ると小さくなり、足利義満や日野富子(義政夫人)が献納したものも残っているが、鎌倉時代の塔婆とは比べものにならない。
(出典: 白洲正子 (2010年) 「葛川 明王院」, 『かくれ里 愛蔵版』, 新潮社, 311ページ.)
上記の引用文のなかに書かれている、息障明王院(葛川明王院)の本堂のなかにある「巨大な塔婆」(参籠札、碑伝(ひで)、木碑)というのは、おそらく、この下の写真の左側に写っている、壁際に立てられている「大きな木の板」のことではないかとおもいます。
おそらく、その「大きな木の板」の上部に、「葛川護法尊」(護法童子)の墨絵が描かれているのではないかとおもいます。
(※この写真を撮ったときは、「本堂のなかに、巨大な卒塔婆(参籠札、碑伝(ひで)、木碑)がある」ということを意識していなかったので、左側に写っている「大きな木の板」のことに注意が向いておらず、「大きな木の板」が見切れてしまっています(汗)。)
このようにして、天野文雄さんの「「酒天童子」考」という論文で紹介されていた、「酒天童子(酒呑童子)の姿と、葛川明王院の碑伝(ひで)に描かれた護法童子の姿が、よく似ている」という話を、実際に自分の目でたしかめるために、息障明王院(葛川明王院)まで行ってみた次第です。
また、天野文雄さんの論文「「酒天童子」考」を読んで、酒天童子(酒呑童子)と、息障明王院(葛川明王院)の「葛川護法尊」(護法童子)とのあいだに、なんらかのつながりがある可能性があるということを知ってから、ほかにも、「葛川護法尊」(護法童子)についての情報を調べていました。
そのなかで、景山春樹さんの「葛川の護法童子と栂尾の護法神像」という論文に出会いました。この下の引用文は、その論文から抜粋した文章です。
(※ちなみに、この下の引用文に書かれている、栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)というのは、京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町にあります。)
この下の引用文のなかには、「葛川護法尊(護法童子)は、不動明王の両脇に侍する矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)の2体の童子のうちの、制吒迦童子にもとづいたものである」というような意味のことが書かれていました。
また、この下の引用文のなかには、栂尾高山寺のちかくにある一瀬護法神祠というお社に祀られている護法童子の像が、「葛川童子」(葛川護法尊)の像とおなじものであることが紹介されていました。
さらに、この下の引用文のなかには、「栂尾には、古くから、「葛川童子」(葛川護法尊)とよく似た姿をしている春日赤童子(かすがあかどうじ)に対する信仰があった」ということも書かれていました。
この童子像が明王院の不動明王の使者である制吒迦童子に基づいたものである事は勿論言うまでもないが、もともとは参籠札に描かれた墨画の自然なまゝの風化を利用して摺ったものである為、像容の不明瞭なところも有ったようであるが、其はまた却ってそこに神秘的と言うか、一種の面白い味わいをみる事も出来たのであろう。
〔中略〕
この葛川の護法童子像が、山城の栂尾高山寺の信仰の中に入って来て居って、栂尾の一、瀬に在る護法神祠の本尊となっている事が最近分ったので以下其について述べてみる事としよう。
梶尾から栂尾の白雲橋にかかる少し手前の道路傍に、清滝川に臨んで一つの小丘が在り土地の人達はここを一瀬護法神祠と呼んでいる。最近文化財保護委員会の近藤喜博氏が、調査されたところによると、一字の社殿には護法神を中央にして、その左右に天神と訶利帝母神とが祀られ、中央の護法神は土製の小偶像であるが、左右には夫々天神と訶利帝母神の板絵神像が奉祀されていると言う事である。そして天神像の裏面には「是者比天満大自在天神尊影也、安政二丁已年二月日蔵人所衆関白直廬預正六位下式部丞菅原朝臣為恭識」と言う冷泉為恭の款記がみられる。
〔中略〕
葛川と栂尾とは、願海阿闍梨と冷泉為恭の事に関して深い関係がある事は、既によく知られているところ。例えば明王院物になっている光明真言功徳絵詞などにも、高山寺の朱印が捺してあったりして、当時恐らく願海等はこの両地を幾度かは往復をしていたものと思れる。だから斯うした葛川童子が栂尾の信仰中に持ち込まれて、栂尾に古くから在ったこれとよく似た春日赤童子に対する信仰とも絡ばれて、斯うした護法神の姿をみせるようになったのは、願海達の影響であったにちがいないと私は思っている。そして上述した如く、これと一緒に祀られていた天神像の板絵には、為恭の款記があるところよりしても、やはりまたこの護法尊が訶利帝母と共に、冷泉為恭の画蹟に属する一連の作品ではなかったかと言う事も充分に考得られる訳である。嘉永二年と言えば、願海も為恭二十七才、時の高山寺の老師は考証好きの慧友上人でもあり恐らく斯うした事に就いては、三人共大いに話の合う間柄であった事と考えられるのである。
(出典: 景山春樹 (1958年) 「葛川の護法童子と栂尾の護法神像」, 『滋賀郷土史』第1号, 滋賀県郷土史学会, 15~17ページ.)
上記の引用文を読んで、「春日赤童子」(かすがあかどうじ)という護法童子が存在することを知りました。
そして、「春日赤童子」のことを知って、つぎのように考えました。
「酒天童子(酒呑童子)と、葛川護法尊(葛川童子)(護法童子)は、姿がよく似ている。そして、その葛川護法尊(葛川童子)(護法童子)と、春日赤童子も、姿がよく似ている。そうすると、酒天童子(酒呑童子)と、春日赤童子とのあいだにも、なんらかのつながりがあるかもしれない。」
そのように考えるようになったことで、春日赤童子についても、いろいろと調べるようになりました。そんなこんなで、現在も絶賛リサーチ中です。
(o≧ω≦)O
これ以降のところで紹介しているのは、そうした、春日赤童子について調査するなかで見つけた、春日赤童子(かすがあかどうじ)の絵のいくつかです。
この下の画像は、『仏像図彙 三』という本に掲載されている、春日赤童子の姿を描いた絵です。
(※ちなみに、『仏像図彙 三』という本には、このほかにも、護法善神(諸天善神)や、神道の神々や、仏教の仏たちなどの絵が掲載されています。)
■画像の出典
「赤童子」(春日赤童子)
仏像図彙. 三 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3442143/9
仏像図彙 三|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I3442143-00
仏像図彙 三
図書
土佐秀信 画
武田伝右衛門, 明治33
明治33年
1900年
この下の画像は、『真美大観 第17巻』という本に掲載されている、春日赤童子の姿を描いた絵と、その解説文です。(絵の題名は、「伝春日光長筆 赤童子画像(木版着色摺)」です。)
■画像の出典
「伝春日光長筆赤童子画像(木版着色摺)」
真美大観. 第17巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849587/24
真美大観. 第17巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849587/23
真美大観 第17巻|書誌詳細|国立国会図書館オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I849587-00
真美大観 第17巻
図書
田島志一 編
日本真美協会, 明32-41
この記事の、最新版&完全版は、下記のリンクの記事でご覧いただけます。下記のリンクの記事は、随時、内容を追加・修正していますので、そちらのほうが最新版の内容になります。
https://wisdommingle.com/?p=25850#jump_201030a
「これ好奇のかけらなり、となむ語り伝へたるとや。」