別の言い方をすると「巨人の肩の上に立たせてもらおう」になりますか。
これからもし、何か辛いことがあった時に、読み返そうと思っています。
今回は、青空文庫様の「安藤昌益(狩野亨吉)」より。
……すみません、嘘をついていました。
旧仮名遣いだから、そう簡単には読めません(´;ω;`)
安藤昌益とは、以下のような偉人です(日本新聞協会様より)。
以下、上記リンク先の記事より引用致します。
江戸中期の独創的思想家として知られる安藤昌益。八戸の町医者だった彼は、封建の世にあって徹底した平等思想を説き、男女が助け合い田畑を耕す「直耕(ちょっこう)」を唱えた。人はみな額に汗して働くべきだとの崇高な理念だ。
昌益を社会批判に向かわせたきっかけは寛延2(1749)年の「猪(いのしし)飢饉(けがじ)」。凶作のうえイノシシに田畑を荒らされ、数千人の餓死者が出た。八戸藩では藩財政のため大豆を作らせたが、栽培した後に放置された焼き畑にワラビやクズが繁茂、イノシシが食べて繁殖した。「自然の生態系を壊す者、それは自ら耕さずむさぼり食う支配階級」と、昌益は痛烈に批判した。
こうした昌益の思想を「わが国に大思想家あり」と紹介したのが狩野(かのう)亨吉(こうきち)博士。
引用は以上です。
要するに「武士は農民のピンハネしとるだけやないかい!」と批判し、皆が平等に大地を耕して生きていくべきだと説いた人なんですね。
ざくっと重農主義と重商主義で分けて言えば、重農主義の方に入ります。
重農主義と重商主義の話にご興味ある方は、以下の記事もよろしくお願い致します。
で、話を戻しまして、安藤昌益は今では思想家として有名ですが。
長い間(ざっと二百年ぐらい)、その存在を知られることはありませんでした。
そもそも武士の支配する世の中で「武士はけしからん!」言うてるやばい思想ですから、これは表に堂々と出せるもんちゃうやろーっていう話ですけれども。
その当時には決して表に出すわけにはいかない、誰にも言えない思想を抱いて、安藤昌益は一人で戦っていた、というわけです。
そして「百年の後を期して書殘す」のでした。
この安藤昌益を発見したのが、狩野亨吉です。
狩野亨吉は、以下のような偉人です(松岡正剛の千夜千冊様より)。
狩野亨吉についての詳細は、別に記事を書こうと思っています。
ですが実は、以前にも安藤昌益と狩野亨吉について触れたことがありました。
それが以下の記事です。
該当箇所を以下に引用致します。
そこで思い出したのが江戸時代の思想家、安藤昌益という人物です。
現在では教科書にも載っているほどの偉人ですが、明治時代になって狩野亨吉に見出されるまでは思想家としては無名のままで、その生涯を終えました(存命中は医師として活躍)。
その安藤昌益が長い間見出されなかった大きな理由が、狩野亨吉曰く「悪文(下手で読みにくい文章)」だったからです。
悪文で書かれている良い(考えが記された)本もある、そのことを明治時代に狩野亨吉が教えてくれていたわけですけれども。
なのに何故か、我々日本人は皆、そのことを忘れてしまいましたね。
……忘れとった……。