前回、以下の記事で「教養の身に付け方のコツはない」と書きました。
山田五郎先生も「好きだから結果として詳しくなったものであり、今から教養を身に付けましょうといってやるもんじゃない」と仰っていました。
確かに「教養がある」という状態にするのは難しいものです。
が、しかしですね。
「教養がない、とは言えない」という状態にするのは、そこまで難しいことではありません。
これについては、コツのようなものがあります。
ただし、先に申し上げておきますが、これは「教養がある」状態ではありませんので、教養があると皆から褒めてもらえることはないと思います。
せいぜいが、教養のある人から「この人は教養がないというわけではない(=教養のない人ではない)」と思わせることができる程度であり、それは教養のない人にはわからないことです。
まぁ、そんな「やらないよりはまし」程度のものですが、簡単にできるのでやっておいて損はないと思います。
もちろん私もやっていますし、全力でおすすめ致します。
それは……
◎自分の教養に相当するものはこれだ
……と思うものを持っておくことです。
何だって良いんです。
些細なことでも構いません。
もちろんお金に換えられなくても大丈夫。
教養とは「人生をより幸せにするために、必要なもの」ですから。
それが何であれ「これが私の人生をより幸せにするために必要なものである。誰が何と言おうと必要だ。誰にも文句は言わせない」で良いのです(犯罪など人の道に外れる行為でなければ)。
ここまでのことができたら「自らの教養はこれだ」という意識があって、それを持っているというわけですから、教養がないという状態ではありませんよね。
そしてこのことがわかると、自分のみならず他人も皆、教養を持っていることがわかります。
(ただ、自らの持つその教養を意識できていない人はたくさんいますけども。
持っているか否かだけで言えば、すべての人が何らかの教養を持っています。
日々生きているわけですから、そこで得られる何らかの教養はあるはずです)
というわけで、ここまでのことをまとめると「自らの教養を意識して、教養がないとは言えない状態とし、他人も同様に何らかの教養を持っていることを意識する」ということになります。
で、ここまでのことを知ると「他人を見下すような行為はあり得ない」と思いませんか。
その人が誰でどのような人であっても、自分には知らないことを知っており、自分にはない教養を持っているわけですから。
何らかの機会によって、それらのお世話になる(学ばせてもらうなども含めて)という可能性もあることですし。
この段階を言い換えると「他人に対する態度が謙虚にかつ寛容に」なります。
自分の知らないことを知っている、だから謙虚になろうとするわけで。
お世話になる可能性があるから、何かあっても寛容になろうとします。
ではここで、その「人生をより幸せにするために、必要なもの」について、もっと深く考えてみてください。
するとそのことにかかわることで、自分がまだ知らないところが見えてきます。
一方、その知らないことを知っている人がいますよね。
「ここに知らないことがある」ということがわかれば、誰かに教えてもらわなくとも検索すれば学べますけれども。
誰かによって「ここに知らないことがある」ということに気付くことができる、という場合もあります。
というわけで、ここまでの話を洋風に言えば……
◎「無知の知」を知る状態
……とも言えます。
和風に言えば……
◎「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺を知る状態
……です。
自分が「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という状態でなくとも良いのです。
その状態がある、ということを知っているところまで来ているのならば。
この状態が、即ち「教養がない、とは言えない」ギリギリの状態です。
この状態は、教養のある人からはそのことが理解してもらえる「わかる人にはわかってもらえる状態」です。
(わからない人にはわからないですけれども、そこら辺は諦めてください。笑)
人生をより幸せにするために、ここまでたどり着けるだけでも「かなりのメリットがあるのでは?」と私は考えています。
というわけで、最後にまとめますと以下。
Q, 教養が「ないとは言えない」という状態にするコツとは?
A,「無知の知(を知る状態)」で、謙虚かつ寛容でいること
以上です。