ちょっと暗い話ですので、閲覧にはご注意ください。
タイトルで何となく、お察し頂いた方もおられるかもしれませんが。
弟が自殺しました。
母は憔悴しました。
もう十年以上前の話ですけど。
詳細は別の記事で書くつもりですが、ここでは自殺の一因として「プレイヤー至上主義」があったのではないかということを書いておきます。
(以前に書いた『日本の低迷の元凶は「日本人の意地の悪さ」か。さらにその元凶は「プレイヤー至上主義」では?』に関連する内容でもあります)
私の父母は、私が幼少時に既に仲の悪い状態になっていました。
父も母も教師で父の方が年上でしたが、学歴(というか卒業した大学の格付け)では母の方が上でした。
さらに口が立つ上に気の強い母でしたので、父はそれが面白くなかったのでしょう。
父は私が小学生の頃に家を出て別居し、事実上の離婚状態になります。
その時から、私と弟二人は母に養育されることになりました(父からの養育費は当時ありませんでしたが、母が言うには「弟の大学進学時に多少のお金は振り込まれた」とのこと)。
そんなわけで、私には「親には向いていない父」と「父親には向いているけど母親には向いていない母」がいたのです。
何故、母親に向いていないと言えるのか?
答えは、我々三姉弟は全員、ひきこもりを経験しています。
私と下の弟は後に社会復帰しましたが、上の弟はできませんでした。
母が母親に向いていない理由はたくさんありましたが、ここでは一つだけ。
賢い母親は「学校はタテマエのみを教わるところ」だと知っています。
普通の母親は「学校が間違うこともある」ということを知っています。
私の母は、それを知りませんでした。
学校で行われている教育をそっくりそのまま、家庭に持ち込みました。
学校で禁止されていることは頭ごなしに「決まりだから」という理由で、家でも禁止。
ゲームやアニメ、漫画などは禁止こそされませんでしたが、嘲笑されました。
「そんなものを観るとバカになる」と。
そこで私は、自主的に買って欲しいというのをやめました。
それでも私は、自分がどうしても納得できないことについては一切、受け入れませんでした(多分ですが下の弟もそうだったと思います)。
しかし上の弟はそうではありませんでした。
親や学校の先生の言うことを聞いて、ひたすら努力に努力を重ねて勉強し、最終的には私よりも偏差値の高い大学に進学します。
ですがその後、彼は大学を中退、仕事をしようとしたのですが、周りの人と上手くいかずに長続きせず、ひきこもるようになりました。
その後に統合失調症が発覚し、自殺に至りました。
母は私に言いました。
その弟が自殺する一~二か月前、ずっと「病気は治らないし就職もできない、生きる目的が見つからない、これから生きる目的は何にすれば良いのか?」と言っていたのだそうです。
その時に、何も答えを返すことができなかったと。
「自分もわからない」
「誰もが目的を持っているわけではない」
「母親である私のために生きて欲しい」
それらは答えではないと彼は言い、納得しなかったと。
さらに母は私に言いました。
「私は何と答えたら、良かったのか?
就職をするか、就職をするための勉強をするか。
私の人生にはそれしかなかった。
それ以外のことを問われても、私にはわからない。
何と答えたら、良かったのか」
私は何も答えませんでした。
ただし、答えは持っていました。
決して言わなかった、その答えは以下です。
「就職をするか、就職をするための勉強をするか。
これは、本当にお母さんらしい答えだよね?
高校の教師としては、これ以上のない模範的な解答だよね?
その先の答えこそ、母親が答えるべき答えなんじゃないの?」
何故、言わなかったのかと言えば、言ってもムダだからです。
言ったところで、弟が生き返るわけでもないですから。
母親を傷つけるだけで、何にも良いことはありません。
それにこの「答えるべき答えを持つ母親」は、極めて優秀な母親に限られます。
普通以下の母親である私の母にそんな能力はないですから、言うだけムダです。
それはさておき、話を戻します。
高校の教師が「就職をするか、就職をするための勉強をするか」という答えしか持っていない(それが当たり前とされている)、という状態こそ「プレイヤー至上主義」の考え方だと思いませんか。
普通の母親は持っている「学校が間違うこともある」ということすらわかっていない、母親。
そんな母親によって、家でも学校でも四六時中「良きプレイヤー(=労働者)であること」のみを教えられた弟は、その良きプレイヤーにはなれないと悟った時、生きる希望や目標を失い、自らの人生を自らの手で終わらせる選択をしてしまいました。
良きプレイヤーでなくても、良いんじゃないですか?
現にコロナ禍の今、お客さんが少なくて困っているでしょ?
良きお客さんがいて、その良きお客さんは必ずしも労働者じゃないとしても、良いんじゃないでしょうか?
私の母は「額に汗して働かないのはけしからん」という考えを持っていましたが。
これは仲の悪かった父が株に投資しているのを見て、さらに増大させたというのもあるのではないかと、私は疑っています。
今現在の私は、人生の目的を働くことだとは考えていません。
人または人生の目的は自らが幸せになることや、人類に貢献すること、あるいは人類の生産活動に貢献することであって、労働そのものではありません。
労働は手段であり、確かに非常に有効な手段ではありますが、しかしそれは人生の目的そのものではありません。
手段は単なる手段に過ぎないものですし、それが労働以外の手段であってもかまわない、その程度のものなのです。
目的ではないものを目的にすると、それが苦しい思いをする一因になります。
さらにそういう人がたくさんいると、国ごと貧乏にもなって苦しくなります。