鬼は外、福は内!
ということで、節分ですね。
豆を撒かれて鬼は外に退散しましたが、その鬼は一体どこへ行ったのでしょう?
そして、その後どうなったのでしょう?
鬼にもいろいろありますが、今回記事にした鬼、酒呑童子は最後には討伐に遭い首を取られてしまいます。
まさに鬼の首を取った!ということなのですが、なんとその取られた鬼の首が今でも埋まっているとされる場所が京都にあります。
その場所は、名の通り「首塚(くびづか)大明神」。
名前からして怖い感じです。
有名な神社仏閣だらけの京都ですが、この首塚大明神はほとんど知られておらず、訪ねる人もとても少ない穴場中の穴場です。
ただ、心霊マニアの間でここは京都最恐の心霊スポットと噂されています。まあ、鬼の首が埋まっているとなれば心霊スポットと言われるのは仕方がないところ。
しかし、軽々しく心霊スポットと言うにはおこがましいような深い由緒がここにはあるのです。
ちょうど節分の季節ですので、怖いのですがこの興味深い場所を訪ねてみましょう!
鬼と言っても、いろんな鬼がいます。
今回取り上げるのは、最も有名な鬼である酒呑童子(しゅてんどうじ)です。
この酒呑童子の首が埋まっているのが首塚大明神なのです。
酒呑童子について、少し説明しましょう。
平安時代初期(西暦800年頃)、酒呑童子は大江山に本拠を構え、時々京の都へ出て金を奪ったり婦女子をかどわかすなど悪行の限りを尽くし、都の人々に大きな不安を与えていました。
そこで天皇は源頼光に命じて、酒呑童子とその一族を征伐させたのです。
(首塚大明神 由緒の石版より)
これだけだとちょっとわかりにくいので、ここで地図をもとに見てみます。
酒呑童子が本拠を構えていたのは大江山。
この大江山は地図のように京都盆地の西に位置し、日本海側から丹波国を経て京の都へ入る街道の関所として非常に重要な場所でした。
酒呑童子とその一族郎党はこの大江山の山中に隠れ、京へ向かう街道の峠である老ノ坂峠に出没し旅人への山賊行為をしつつ、たびたび都へ出て悪さをしていたということです(諸説あり)。
こんな悪さをしていたので、都の人は酒呑童子を鬼に例えたのですね。
なお、大江山は現在は大枝山と字が変わっています。よみがなはどちらも「おおえやま」です。
酒呑童子が居た大江山はここではなく現在の京都府福知山市にある大江山だったという説もありますが、福知山は京の都から遠くおちおち都に出てこれないので、福知山説はどうなのかな?と個人的には思っています。
さて、これが酒呑童子がひそんでいた大江山(大枝山)です。
京都盆地から西を向いて撮っています。
なだらかな低山が続く、京都西山のひとつです。
一番山が低い場所が老ノ坂峠(おいのさかとうげ)。
現在は京都縦貫自動車道と国道9号線が通り、昔も今も交通の要衝です。
ちなみに歳をとることを坂を登ることにたとえて「老ノ坂を越える」と言いますが、この表現はこの場所から取ったらしいです。
この老ノ坂峠に首塚大明神はあります。
行ってみましょう!
鬱蒼とした森の中にひっそりと鳥居が見えてきました。ここが首塚大明神。
首塚大明神への交通手段としては、首塚大明神は国道9号線の近くにあり国道にはバスが通っていますので、それで向かうのが良いと思います。
京都駅から老ノ坂峠を越えて亀岡まで行く京阪京都交通バスが30分に一本出ているので、それに乗って老ノ坂峠バス停で下車。バス停から徒歩10~15分くらいです。
ただし国道のバス停から首塚大明神への道は途中が狭く竹やぶに覆われ暗く、たまに熊が出るそうで、人通りもなく沿道には廃墟のモーテルもあるのでとても怖いです。
その廃モーテルは心霊スポットとして有名です。
僕はマイカーで向かいましたが、どうやらこの道は車では通行不可だったようで、車が通れないほど狭く引き返す事もできずに非常に焦りました。なんとか車幅ギリギリで通過しましたが。
車では老ノ坂トンネルの亀岡側からでないと行けませんので注意してください。
さて、鳥居から石段を登りましょう。
あたりには誰もいません。僕が来てから帰るまで誰にも会いませんでした。
助けを呼んでも誰にも届かなさそうなので、正直怖いです。
非常に静かな、鬼がいる時代で時が止まったかのような雰囲気です。
こんな木の根道を、恐る恐る登ってゆきます。
鬱蒼とした感じで、いかにも首が埋められていそうな環境?です。
一分も登らないうちに、こんもりした小山の上に鳥居と本殿が見えてきました。
小山の上にたどり着きました!
首塚大明神本殿。
ちっちゃいお宮さんで、親近感がわきます。
もちろんここにも人影は見えません。
まずはお宮さんに参拝。
ここの祭神はもちろん酒呑童子。
ここには、名前の通り酒好きな酒呑童子のために日本酒が供えられていました。銘柄は久保田千寿、越後のお酒ですね。
酒呑童子は越後出身と言われているので、故郷のお酒を供えているんでしょうかね。
さて、鬼の酒呑童子の首はどこに埋まっているのでしょう?
それは…。
本殿の裏手。
何やら柵で囲まれています。
この柵の中に酒呑童子の首が埋まっている首塚があるのです!
恐る恐る、柵の中をのぞき込んでみましょうー。
おおー、こんもりと盛り上がった塚が!
これが首塚なのですね。ここに酒呑童子の首が埋まっている!
一瞬、掘り起こしたい衝動に駆られますが、そんなことしたら大変なことになります。
誰かイタズラで掘り起こしたりしないのかな?と思わなくもないですが、ここは地元の人でもあまり近寄らないスポットで(実は僕もそこそこ地元)、ましてやイタズラしたら大変な目にあうという認識は訪ねる皆さんが持っているものと思います。
首塚の柵の前にはカエルが5匹並んでいました。なんで?
以前は6匹いたとのことなので、酒呑童子討伐に出た6人の武将を表しているのでしょうか?
さて、ここ首塚大明神に酒呑童子の首が埋められた経緯について、由緒が書かれた石碑がありました。
とても興味深いので、この由緒や他の資料をもとに酒呑童子の物語と首塚大明神について要約してみます。
平安時代初期(西暦800年頃)のこと、酒呑童子は大江山に本拠を構えてたびたび京の都へ出て金を奪い婦女子をかどわかすなど悪行の限りを尽くし、都の人々に大きな不安を与えていました。
そこで天皇は源頼光(みなもとのよりみつ)や藤原保昌らに命じて、酒呑童子とその一族を征伐させたのです。
源頼光らは山伏に扮して大江山に分け入りなんとか酒呑童子を懐柔し、酒呑童子が大好きな酒(実は毒酒)を振る舞ったあげく、寝込みを襲って酒呑童子の首を取りました。
なんだか卑怯な殺り方ですが、酒呑童子自身もそう感じたらしく「鬼はそのような邪(よこしま)なやり方はしない」と怒ったそうな。
頼光らは酒呑童子の首を京へ持って帰ろうとしましたが、この老ノ坂峠にある子安地蔵が「鬼の首のような不浄なものを都に持ち行くことはならん」と言ったら、なんと首が持ち上がらなくなりました。それは征伐に参加していた力自慢の坂田金時(=金太郎)ですら持ち上がらなくなったほどなので、やむを得ずそこに首を埋めたのです。
その場所を祀ったのがここ、首塚大明神です(諸説あります)。
酒呑童子は首を切られる時に今までの罪を悔い、これからは首から上の病を持つ人を助けたいと言い残したと伝えられています。
なので、首塚大明神は首より上の病気に霊験あらたかなのです。
このあたりの由緒と鬼についてさらに詳しくは、下のリンクにある倉田幸暢さんのALIS記事を読んでください。
倉田さんは鬼についてフィールドワークを交えて研究されており、世界鬼学会会員でもあって、なんとここALISでも記事を書かれてます。
こんなマニアックな首塚大明神まで訪ねるって、京都民の僕ならまだしも、倉田アニキすごいっす。
さて首塚を見たことですし、あんまり長居するのは怖い雰囲気でもあるので、そろそろ帰りましょう。
振り返ると、鳥居の横には幹がパカッと割れて中が炭化した大木が。
ちょっと不気味です。
下には、社務所のような建物がありました。
社務所は無人で倉庫のような建物ですが、時々首塚大明神の管理に来られているような感じです。
そうそう、毎年4月15日は大例祭が行われます。
この大例祭の時を狙って倉田さんはここを訪ねられているんですよね。倉田アニキぱねぇっす。
ふと上を見ると、杉の大木が何本も。
木々が覆って優しく首塚を守っているように思えました。
そして木の根元には苔やシダが生えて、しっとりとした地面。
やはり鬼の時代から時が止まっているような、静かな空間でした。
さあ、帰りましょう。
もう、大江山(大枝山)に日が沈みます。
酒呑童子もこの夕日を同じように見ていたのでしょう。
鬼は悪の象徴ですが、その鬼の首が長い年月を経て、今や首から上の病に霊験あらたかという信仰の対象になっています。
首塚大明神を訪ねると、鬼ってそんなに嫌われることないんじゃないかなと親近感が湧いてきました。
こんなふうに、鬼という想像上のものが首塚という具体的に見えるものになっているのはとても興味深いことです。
今年は節分にあたって鬼について少し深く思いを馳せられて良かったなと思いつつ、日暮れの大江山を後にしました。
Camera: LUMIX G8
Lens: LEICA 15mm F1.7, LUMIX 25mm F1.7, 12-60mm F3.5-5.6, OLYMPUS 9mm F8.0
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