オープンβおめでとう?ございます。
それに伴いカテゴリが緩和されたとのことで、怪談?部の投稿をしようと思います。
タイトルにあるようにこのポストは怖い話ですが、別に怖くもないかもしれない。
小学校の時のお話です。
私は英語が死ぬほど苦手です。昔は普通に外人に話しかけに行く天真爛漫さを持っていたようですが(ホテルのロビーで異国の人に話しかけに行くのが好きだったらしい)、英語の成績は芳しくありませんでした。文法とかよくワカンねぇ!!ジェスチュアで通じるだろ!人類皆兄弟!ハートフルに生きようぜ!みたいなことを高校になっても言い訳して、英語の偏差値だけは30とかでした。
まぁそんなこんなで英語が苦手な私なのですが、小学校の時に沖縄の米軍基地にホームステイをしていたことがあります。沖縄のことなんかよく分かってない小学四年生くらいだったか?とにかく私はなーーーーーんにもわからん状態で沖縄にいました。
ホームステイ先は米軍の軍人さんの家で、長女6歳、長男3歳、次女1歳という3人の眩しいくらい金髪碧眼の子供達がいたのを覚えています。
軍人さんは映画で見たようなタトゥーが腕にバリバリ入っており、子供心に「この人はこのイラスト(なんかドクロとかだった)と一生生きていく覚悟あるんだな」とか考えつつ日々過ごしました。
よくわからん単語は辞書を引いて、そしてイラストとジェスチュアでどうにかなる日々でした。何より私のイラストを見てホームステイ先の人たちはもっと描いて!と喜んでくれたのでオタクって世界平和に役に立つんちゃうか?と思ったりしていました。完全にイキリオタクですね。
沖縄の米軍基地はとても綺麗な海岸を占拠していると、大人になってから知りました。基地の中はアメリカそのままで日本とは思えませんでしたし、海は本当に美しかった。ホストファミリーは私にすごく良くしてくれました。色んなところに連れて行ってくれたし、色んなことを体験させてくれました。私は自分でピザを生地から作ったことはなかったし、冷蔵庫にコーラがなんぼでも入っている生活を送ったことが後にも先にも無いです。ただこの人たちは軍人だから、いつか何かがあったら、何かと戦うんだろうなぁと漠然と思っていただけでした。
ある時お父さんが言いました。
「鍾乳洞を見に行こう」「涼しいし、ハブとマングースも見れる」
噂に聞いていたハブVSマングースを見る日がついに来たか…と思いつつ、正直鍾乳洞には何にも期待しませんでした。水が滴り、やがて石になっていくのは不思議だと思いましたが、ワクワクもしない話です。その点ハブとマングースは白熱した感じを受けそうな気がしました。
車に乗せられて、子供たちと一緒に鍾乳洞に行きました。三歳児は私と同じようなレベルの英語なので車内では片言の英語で「怖いか」「僕は平気だ」「お前は絶対泣いちゃうだろ」「僕は男だからA(姉)とB(妹)を守るんだ」と忍者タートルだか何だかのフィギュアを片手に喧嘩ごっこを仕掛けてきました。地味にフィギュアの腕が刺さると痛いから何回か「やめろ」「殴るな」と苦情を言いましたが聞いてくれませんでした。
最初は余裕の表情だった三歳児でしたが、ハブとマングースでややテンションが下がり出し、大ニシキヘビ?を首からかけられる体験をする私を見て泣き叫んでいました。
「怖いのか」「泣いてるじゃ無いか」「大丈夫?ちょっと触ってみなよ、可愛いくらいだよ」これが小学校の余裕です。めっちゃ生臭いし、ヒヤッとしてるし、皮膚の下でウゾウゾと蠢く感触が何とも気色悪かったけれども、これで三歳児にマウントが取れるなら楽勝でした。
鍾乳洞を目の前にすると更に三歳児は可愛いもんでした。すっかり大人しくなり、お母さんの足に抱きついて離れません。大人気ない完全勝利です。
鍾乳洞は薄暗く、湿めりけが漂っていたし、空気が外気と違いミネラル分が豊富そうな匂いがします。「怖い?」と聞かれて私は「思ってたより平気」と答えたと思います。実際単なる洞窟だし、ドラマや映画みたいに何かが飛び出してくるわけでも無い現実世界にそんなに恐ろしいことはありません。
ただ何が目的でこんなところに皆集まってくるのかよくわからないなぁと思っただけでした。我々以外にも多くの人がそこに集まっていろいろ話をしていた気がします。
何故「気がする」かと言うと、私は思い切りその辺りからしんどくなっていたからです。普段慣れないアメリカンな生活と、脳みそが焼き切れそうな英語という外的要因により知恵熱の気配を感じます。幼少期から病気慣れしている私は「あーこれ扁桃腺腫れてめっちゃ熱が出るやつやんけ」と覚悟しました。大概はしゃいだ私には天罰のように体調不良が降りかかるのがいつものパターンだったのです。
その夜から私は高熱を出しました。ホストファミリーは朝になったら日本人の先生がいる病院に連れて行くからね、と私に伝えてくれました。夜一人はとてつもなく心細かったけれど、ここは日本では無いので仕方がありません。
高熱でうなされながら脳裏で「いつも父さんがくれるオレンジの薬(今思うとボルタレンですが、親父は私によくこんなキツい薬をホイホイ飲ませてたな?と思います)持ってきたら良かった」「しんどい、寒い、暑い、グラグラする、だるい」「天井がぐるぐるする」と高熱でいろんな思考が浮かんでは消えていきました。
ふと薄眼を開けるとホストファミリーのお父さんがベッドサイドに立っているのが見えました。何をするわけでもなく見下ろしているだけでしたが、人が気にかけてくれているだけで随分安心するものです。熱が落ち着く頃には内地の自宅に帰る頃だろうなと思うと、初の沖縄まで飛行機で来たのに勿体無いなぁと思うばかりでした。
翌日ホストファミリーに連れて行ってもらい、沖縄の病院に行きました。華氏だったせいでよくわからなかった体温でしたが、余裕で摂氏41度だったようで医者に「しんどかったなぁ」と言われました。私は「いや、でも夜になってもホストファミリーのお父さんがずっと横にいてくれたので大丈夫でした」と言いました。先生は良かったなぁ、良い人だなぁと言って、それを横で心配そうにしていたお父さんとお母さんに伝えました。
二人はそこで「昨日はベッドサイドには行っていない」と言い出しました。視界の端にずっと見えていたお父さんのアーミーパンツは熱に浮かされた私の幻覚だったのでは?というオチになりました。ハートフルさが台無しです。
その後ストンと熱も下がり、私は元気にヤギの乳を一気に口に含んで噴いたりしながら(あんなに臭いと思わんかった)沖縄を後にしました。
私はその後歴史を勉強し、沖縄本土決戦の悲惨さ、私が見た鍾乳洞が防空壕であったこと、そして私が見ていた幻覚の変わった靴下のことを「ゲートル」ということを知りました。
まだ沖縄には気さくな気持ちで行けません。