この言葉にはいくつか意味があり、そのうちのひとつに「偏った物の見方。先入観にとらわれた物の見方。」というものがある。
たとえば、「田舎なのでファッションが派手だと、色眼鏡で見られる事が多い」みたいな感じでこの言葉は使われ、「偏見」というネガティブなイメージが思い起こされることがある。
しかし、よくよく考えると、人はそれぞれ何かしらの色眼鏡をかけて世の中を見ている、とおもう。
当たり前のことだが、人によって歩んできた人生は異なり、人によって経験してきたものもその経験から感じることも異なる。
持っている遺伝子、育った環境、出会った人や音楽のジャンルなど、他にも挙げればキリがないほど、多様なはず。
個人単位でみれば多様なはずなのだが、なんだかんだ人は、育った地域や生まれた時代によって出来上がった価値観に偏りがある。
「ウチ」や「ソト」を意識しちゃって、気づかぬうちにバイアスがかかっている、みたいな。
たとえば、「行儀よく食べる」ことをマナーとして学んだ日本人は、街中の路上に大人数で広がり地べたに座って飲食する「行儀の悪い」中国人観光客のことを不快におもったり。(あくまで例です、中国人みんなではない)
実際は「行儀よく食べる」マナーのほうが世界的には珍しいことなのかもしれないのに、じぶんの価値観から遠く外れた「行儀の悪い」ほうに目が行き、「ソト」に対して不快におもうひとがいる。
また、電子マネーやクレジットカードといったキャッシュレスのほうが、確実にデータが残るという安全な設計ができているのに、「古い価値観を持っている人」は現金の方が安心できると言って、現金主義の考えを頑なに変えない。
でも、もしかしたら現金主義の人のことを「古い価値観を持っている人」と捉えること自体が「ソト」に対する偏見の結果なのかもしれない。
そういった感じで、「みんな、なにかしらの色眼鏡をかけている」。
「みんなが何かしらの色眼鏡をかけている」ことを踏まえて、あえて意識的にいろんな色眼鏡をかけてみることは「人間とはどういうものか」みたいなことを考えることにつながるんじゃないか、とおもう。
あらゆる色眼鏡をかけてみて、ことなる価値観のどこが似ていて、どこが違うのかをみてみたりする。それが結果的にいわゆる「クリエイティブなもの」の生産につながるのかな、とかおもう。
なぜなら、「クリエイティブだな」とおもうことって、おそらく「独自性も共感性も併せ持つもの」だとおもっていて、「人間とはどういうものか」を考えることが、「だれも気づかない共通点や差異をみつけることにつながる」なんてことをおもうからだ。
って考えたら、クリエイティブな発信をするために、というよりは、発信内容が自然とクリエイティブなものになっている状態になるための第一歩は、「いろんな色眼鏡をかけてみる」ことだとおもう。
もちろん、クリエイティブであることが全てではないが、面白い発信をしたり多種多様なヒトの話を美味しいネタに昇華するためにはクリエイティブであることが大事だとおもっている。
だから、今後は「いろんな色眼鏡をかけてみることを意識しながら生きたいな」なんてことをおもう。そのためには、じぶんの価値観や安全地帯の外側に行く回数を増やすことが大切。
とはいえ、別にお金もないのに無理してアフリカに旅したりする必要は必ずしもないとおもっていて、本を読んだりVRで擬似体験することでも可能だとおもっている。
最近は人類史系の本にハマっているので、当分はそういった本の世界にプカプカ浸ったりしつつ、言葉というツールで記事を書き続け、抽象と具体の行ったり来たりを愚直にやっていきたいとおもう。