この記事では、ジャン・ジャック・ルソーが著した“エミール”から、子育てや生活に役立つような言葉を抜粋して紹介していきます。
“子どもは子どもの教育が必要である”と考えたルソーの考えを、1記事に2〜3つずつまとめていきます。
またそれらの言葉がこの本の要約にもなるようまとめていきます!
ソフィーという女性について
これまでのエミールについての記事では、ルソー視点による女性と男性の価値観の違いやこうあるべきという主旨の内容をまとめてきました。
現在紹介しているのはエミールの上巻、中巻、下巻のうち下巻の半ばに差し掛かるところです。
この辺でソフィーという15歳(この時点では)の女性が登場します。
ルソーが考えた教育方針に則って育ったとされる“架空の女性”であり、エミールを夫とする予定の人物です。
彼女は決して完璧な人間などではありません。
食いしん坊なくせに料理は好きではありません。
幼い頃は何かしらの才能があったはずなのに、それを伸ばす機会に恵まれたわけでもありません。
感受性が高く、その感受性のためにときには色々と想像をめぐらして感情を抑えることができないこともあります。
しかし彼女は、欠点を上手く利用することを知っています。
食いしん坊だけども、節制をすることができます。
節制によってコントロールした自分を、やがて徳によってコントロールできるようになっています。
人は彼女に近づくときは無関心……、でも離れるときは彼女を忘れることができなくなる。
そんな女性がソフィーです。
今後はソフィーを中心にエミールや男女についての価値観が展開されていきます。
「彼女は自分の能力で分かることしか判断を下さない。」
女性は男性の価値の判定者として、男性は女性の価値の判定者として生まれている。
これは両者の相互的な権利だ。
そして両者はいずれもそのことを知らないのではない。
ソフィーは権利を知り、それを用いているが、彼女の若さ、経験の乏しさ、彼女の境遇にふさわしい慎ましさをもっている。
彼女は自分の能力で分かることしか判断を下さない。
分かったとしても、それが何か有益な格率を示していくれる場合にしか判断を下さない。
「男性について語っている限り、女性はいつも公平なのだ。」
ソフィーは、その場にいない人のことはいつでもできるだけ慎重な態度で語っている。
それが女性のことである場合には特にそうしている。
女性に悪口を言わせたり、当て擦りを言わせたりするのは、同性について語るときだ、と彼女は考えている。
男性について語っている限り、女性はいつも公平なのだ。
だからソフィーは男性について語るだけにしている。
女性については、彼女は自分が知っている良いことを知らせるときでなければ、決して語らない。
同性の人にはそういう敬意を払わなければならないと彼女は信じているのだ。
まとめ
今回はエミールの数少ない登場人物の一人、ソフィーの紹介と彼女の一側面についてのまとめでした!
その中でも“ソフィーは自分の能力で分かることしか判断を下さない。”という文言が印象に残っています。
一見、分からないものは判断できないじゃんと当たり前のことのように見えますが、これをコントロールするの力はかなり意志の力が必要になります。
その例としては“よく分かってもないのに批判する”といったことが挙げられます。
まともに読んでもないのにその本を批判する人。
軽く触れたもしくは見ただけなどやってもないゲームにケチをつける人。
見ず知らずの他人だとしてもスキャンダルがあろうものなら、鬼の首をとったように叩く人。
SNSが発達した現代ではよく見かけますよね。
悪口など他人を批判するたびにドーパミンが出ることも明らかになっており、無くすことは不可能な現象です。
依存するほどの快楽に抗い、判断を下す(=安易に批判する)行為をコントロールできるのは中々大変なことだと思います。
それを実践できるよう書かれているソフィーが一体今後どうなるのか。
ルソーは彼女について「もしソフィーが完璧すぎる女性だったなら彼女に魅力は半減するだろう。」と言っています。
しかし彼女は、語りかけてきた人を喜ばせようという精神が根底にあるため、人は彼女を意識せざるを得ないとも言っています。
そのために不用意に持論を展開することもなく、他人に対して話をする際は慎重に、それであっても嫌味がないように振る舞います。
今後の記事にて彼女がどんな行動を取って読者に語りかけるのかが明らかになっていきます。
また少し先ですが、良く育ったエミールとどのような交わりがあるのかについてもまとめていこうと思います。