マレーシア人にとって、「死」とは日本人よりももっと身近な存在だ。
少なくとも日本人よりもタブー視されていないと思う。
発展途上国特有の人権意識、宗教的な食文化、そして急激な経済発展、・・・
これら全てが「死」を身近にしているように思える。
先ず、日本人がこの国へ渡航しようとして面食らうのはビザ申請の時だろう。
「不法薬剤の持込みは死刑に処されます。」
こんなゴム印がご丁寧に日本語であなた自身のパスポートに押印される。
「こっちも不法薬剤など持ち込む気は毛頭ない。
でも、敢えて“死刑“って書くかね、普通?誤認逮捕、裁判の裁量だってあろうに。」
日本人としては、こんな感覚が普通だろう。
それもそのはず。
誤解を恐れず敢えて言えば、この国では命は日本ほど尊重されてはいない。
平均年齢は日本人よりも20歳も若いこの国ではバリアフリーなんて存在しない。
側溝を歩けばいつでも転落し放題。
万一転落しちゃったら、まるで死んだアナタが悪いといった感じに陥ってしまう。
マレーシア人も日本人と同様、魚を食らう。
でも、物流や保冷技術が不十分なせいか、「死んだ魚」では鮮度の担保がとれない。
その結果、中流以下のスーパー、飲食店ほど、水族館のような形で魚を陳列、注文とともに殺めてくれることとなる。
それよりもこの国にとって不運なのは鳥たちだ。宗教の理由をモロに被る。
当然ながら、イスラム教では豚肉、ヒンズー教では牛肉が忌避される。
その結果、動物性たんぱく質の供給源は鳥たちに集中する。
しかも先ほどの理由で、鳥たちは食される直前に殺められることが日常となる。
食堂街の路地裏を歩くと鳥たちの「絶叫」が木霊することがある。
あとカエルも貴重な食糧源だ。
お祭りに出掛ければ「ペット用」ではなく、食料となる前の怯えたカエルたちに遭遇することもある。
ちなみにこの国では、普通に住宅街の公園の池にさえ、体調50センチ程度のオオトカゲが頻繁に現れ、さらに郊外にでも行けば、路上で轢かれた光景に出くわすことも少なくない。
しかし、今のところ、オオトカゲを食用に提供されたことはなかった。
あまり美味くないのかもしれない。
急激な経済発展は、人々の精神的な発達と社会インフラのアンバランスをもたらす。
店内で平気で居眠りをしたり、
スマホに夢中で客に気づかない店員・・・
そんな光景が日常なのんびりとした国民性。
そんな人々は今、否が応でも先進国が待ち受けるグローバル社会の競争に巻き込まれつつある。
それは時として人々の断絶を生んでいるようだ。
自分がかつて中年留学してた現地の大学院では、先日、拳銃自殺をした学生がいたそうだ。
そう言えばマレーシア滞在当時、衝撃的な風景を目の当たりにしたのを今でも忘れない。
それは、コンドミニアムの高層から飛び降り自殺をしようと試みる若者と、それを必死に引き留める母親らしき姿であった。