「永遠の愛を誓いますか?」
西洋式のチャペルでの結婚式で、神父さん(アーメンの人)が新郎新婦に問いかける言葉です。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれるように、「愛する」ということに重きを置いている宗教ですね。イエス・キリストも、「隣人を愛せよ」と言いますし。
ところが、仏教では愛はあまりよろしくないものです。具体的には、愛は自己に対して向けられ、執着や欲望の元であるから、避けるべきものとして教えられています。
また、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本には、以下のような表現があります。
愛とは、相手に対して、自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えること。そして、与えることによって、かならず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。
これまでの人生の中で、筆者は色んな人を愛そうとしたし、恋愛的な意味も含めて愛されようと努力してきました。さらに、愛とは何かを理解するために、上述の通り、色々と学んできました。
そんな試行錯誤を経て、たどり着いた自分なりの結論。それは。。。
愛とは、ただ認めること。
自分も相手も、ただそのまま存在していることを知ること。愛は、心躍るロマンスでも、あるいは重苦しく戒められる罪でもない。
善悪や優劣もなく、条件の有無を問わず、万物はただ「ある」だけ。
多くの争いは、たいてい何かに対する不平不満に端を発しています。
そして、その不平不満の正体は、満たされなかった思いの成れの果て。渇望した愛を得られず、裏切られた思いが形を変えたものであると耳にしたことがあります。
キリスト教が述べる愛。
これに呼応する仏教の考え方は、「慈悲」とされています。
両極の性質である「慈しむこと」と「悲しむこと」がセットとなっている状態。
良いことも悪いことも、うれしいことも悲しいこともまるっと抱きしめる。
そのような姿勢が示されているのかもしれません。