
この間、cotohokuの場で頂いたお花、つぼみだったユリもこんなに綺麗に咲きました。お花って本当に綺麗だなあ、としみじみ。実家ではユリの香りがぷんぷんと漂っているそうです。とっても穏やか黒猫のりんちゃんも、かんわいいよねえ。👼

こうしている今もまさに、お花にケアされりんちゃん(黒猫)にケアされ、心に余白が生まれて、誰かの声に耳を澄ませるようになります。どんなに怒ってる人でも、「何か嫌なことあったのかな」と思えたり、悲しみがこちらまで伝わってきてしまう時でも、その悲しみを共に感じられる余白があることは、ケアをする側の人たちにとっては必要なことです。
もちろん、誰かを「ケアする」人たちが、いつもケアする側かと言えばそんなこともなくて、時にその関係が逆転することもあります。ケアしてると思ってたけど、ケアされていたなあ、と思うことは、誰でも経験があるはず。
ただこれが、二人の間だけに閉じてしまうと、ケアする立場の人が、どうしても苦しくなってしまうことがあります。例えば子育て中のお母さんとか、赤ちゃんに癒されることもあるけど、それだけでは、子育ての大変さはしっかりケアされない。赤ちゃんをケアするお母さんをケアする存在が必要です。
だから、ケアする人がケアされて、ケアされた人がまた誰かをケアし、そのケアされた人がまた誰かをケアする…。
そんな風に、この営みはぐるぐる循環するものなんだろうなとも、思うわけです。
でも今、このぐるぐるが全然足りていなくて、二人の間に閉じてしまっていたり、無意識にケアしてくれるはずの自然(花鳥風月)や、「自由気ままに生きる猫」の存在が生活にいなかったりする人が多いのかもしれないな、と思います。
誰しもがケアされないと生きていけないのに、みんながケアを必要として、でもみんなにケアが届かないこの状況が、生きづらさや社会の息苦しさの、ある種の正体なのかもしれません。
ケアがぐるぐる、風通し良く、社会にいきわたれば良いなと願うし、cotohokuのやっていくことは、ここをめがけています。
先週水曜日に開催した、第1回cotohokuの場に参加して下さった皆さんから、こんな感想を頂きました。
「対話」っていうと普段の会話と違うのかな?と構えてしまったがまゆっちの解説があったのでよく聞き思いを伝える会話(対話?)ができた。
参加前は何を話せばよいかと少し不安だったが、ゆるい雰囲気があって話やすかった。
この人たちなら何言っても大丈夫だなという安心感があったので遠慮なく話せた。
カタールルームの雰囲気がいい。カタールルームでカタールのは格別。
ケアされた結果、粋なダジャレまで飛び出しました。ありがとうございます。
先日参加して下さった方の中には、通信制高校の学院長をされている方もいらっしゃって、その方からはこんなご感想を頂きました。
伊藤さん主催の対話イベントに参加いたしました。伊藤さんの温かいお人柄がそのまま場の空気となり、まるで美しい景色をただ眺めているかのように、心が穏やかになる時間でした。参加者一人ひとりが「そのまま」で受け入れられ、自然の流れに身を任せられるような深い安心感に包まれました。心がふっと軽くなる、温かな対話の場をいただき感謝しています。
誰もが自然体で生きられる、それはcotohokuのビジョンでもあり、そんな瞬間を創り出し続けたいと思っています。
そして最後にもう一人。ご感想と、今後のcotohokuの場への期待と共に声を頂きました。
対話って、議論や話し合いといった普段のコミュニケーションとは違うものの方がいいなあー、意見を言うのとは全然違うのがいいなぁと感じました。
互いの今の悩みやモヤモヤを吐露する。とりわけ、普段人に見せていない自分の弱さや恥ずかしい部分、醜い部分みたいなのを言葉にして、それが他人に伝わって、受け入れられなくても受け止めてもらえる、そんな体験が、対話の先に生まれてくると、普段と違う世界が広がってくるように思ったわけです。
しかも、単なる慰めの共感ではなくて、時に対立を生みながらも互いの違いを受け入れて理解していく、そんな境地に至れると、高い満足感が得られるのでしょうね。
もっと簡単に言うと、まるで日記のように素の自分を呟ける場がコトホクの場であったら素敵だと思いました。
私は見かけより非常に弱い人間なので、弱さを持っている人に惹かれます。互いに微笑みながら弱さを語り合いたいなぁ
そんな、大人のアキウスコレーができそうな期待を持ちました。
ままならないね、と言いながらも、一緒に大福を食べて美味しいと思えて、もやもやや辛さはもちろんすぐには消えないけれど、そんな言葉をこぼせる場があること。あんまり見たくなくてしょうもない部分も出してもいいかなと思える場があることは、いつの時代も、生きていく中で必要なことだと思っています。
おやすみなさい。











