今日、所属する学生団体の友人と1on1をする機会の中で、寛容のパラドックスと言う言葉を知った。詳しくはウィキペディアを参照してほしいのだが、ある一方にとっての寛容性が他方に不寛容性を生むのではないかと言う問題のことだ。
例えば誰もが自分を表現しても良いと言うコミュニティーがあったとする。その中で自分を表現することによって他人が自己表現をすることを妨げているような人物がいたとしても、その人の自己表現を許しても良いだろうか?と言う問題が生じる。
といったような状況を想定してもらえればイメージが湧くと思う。
僕自身がまさにコミュニティーサービスを作っていることもあり、その寛容性と言うものについては考える必要性を感じていた。
特に今構想している会話プロダクトでは、Newspicksのコメント欄とFacebookのイベントページを足して2で割ったような性質を作りたいと思っていて、そこで交わされる会話の質と在籍しているユーザの質に力点をおきたいと考えているからだ。
そして改めて寛容のパラドックスと言う問題が会話の中で出現した時、単純に概念を知らなかったためになるほどなぁと感心した。
これまでなんとなく言語化されていなかったものが言語化されたような気がしたからだ。
寛容性や不寛容性と言うものは、コミュニティーの雰囲気や性質から自然に醸成されてしまうものであって、意図的な排除は難しいものだと思ってしまった。しかしその難しさに挑むことこそ意味があると思う。自然に醸成されてしまう雰囲気を、いかに人工的にコントロールできるか。それがコミュニティーづくりでの鍵になる気がしてならない。
全員が全員最もコミュニティーとしての場に価値を感じられる場づくりを設計するには、現在コミュニティーそのものが構想段階ではあると言うものの、まだまだまだまだ時間がかかりそうだ。