【1】オーストリアの「最後の黄金の日々」とは?
ミュージカル映画の傑作、「サウンド・オブ・ミュージック」。今なおその魅力は色褪せず、まさに映画史に残るべき一作だ。
実に半世紀も前につくられた作品である。かくいう私も、この映画を初めて見たのは2011年ごろ。知り合いに勧められてとりあえず見たのだが、意外や意外、ちっとも古臭くなく、その面白さにすっかり魅せられてしまった。
「ドレミの歌」「私のお気に入り」「エーデルワイス」などの楽曲もすばらしいが、登場人物もストーリーも魅力たっぷり。最後までその世界にどっぷりつかって楽しんだ。
ところで、この映画で心に引っかかった箇所がある。
オープニングの出演者の字幕につづいて、こんな文が表れるのだ。
「ザルツブルク、オーストリア 1930年代 最後の黄金の日々」
これを見て、私は「はて」と思った。「最後の黄金の日々」とはどういうことだろう?
オーストリアといえば、21世紀の今日、先進国に数えられる国の一つである。
一人当たりGDPも、教育水準も高い。2019年の「世界幸福度ランキング」では、世界156カ国中、10位である。
そしてオーストリアの首都ウィーンは、2018年には「世界で最も住みやすい街」に選ばれている。
そんなオーストリアが、「最後の黄金の日々」という文句とともに紹介されるとは、どういうことなのか?
これではまるで、オーストリアが今日、見る影もなく衰亡してしまったかのようではないか。
そんなささやかな疑問とともに「サウンド・オブ・ミュージック」を見て数年ののち、私はたまたまP・F・ドラッカーの著作「傍観者の時代」を読んだ。
「マネジメント」で有名なドラッカーの自伝ともいうべきこの本の中で、若きドラッカーが故国オーストリアを去るというくだりがある。
当時はまさに第二次世界大戦前夜。隣国ドイツでは、ナチスが政権を掌握し、ヨーロッパを席捲しようとしていた。
ナチズムを否定していたドラッカーは、故国を去ることに決めていた。しかし、それを行動に移しかねていた。
そんなドラッカーの背中を押したのは、知人の叱咤だった。彼は言った。
「(略)ウィーンにいたくないという君の気持ちは正しい。ウィーンは昨日の町だ。終わった町だ」
ーP.F.ドラッカー「傍観者の時代」、第2章より。ヘルマン・シュワルツワルト博士の言。
この言葉を受けて、ドラッカーは翌日、ロンドン行きの汽車に乗った。1934年のことだった。
これはまさに「サウンド・オブ・ミュージック」の時代と一致する。
これらの描写から想像されるのは、「オーストリアは滅びゆく運命にある」というような認識が、かつて広く共有されていたということである。
おそらくはそれは、議論の余地のないほど明白な事実だと思われていたのだ。そうでなければ、「最後の黄金の日々」だとか、「終わった町だ」とかいう表現がなされるはずがない。
そう、オーストリアの衰亡は、共通認識だったに違いない。
「サウンド・オブ・ミュージック」は1965年の公開。ドラッカーの「傍観者の時代」は1979年の著作。おそらくそのころまでは、オーストリアが再び先進国になるなどと、予想されていなかったのではないか。
そうだとすると、オーストリアの復活は、ここ半世紀ほどの出来事だということになる。
第一次大戦(1914年)後のオーストリア=ハンガリー帝国の解体から、誰もがその衰滅を疑わないほどの低迷を経て、再び世界に誇る地位を取り戻したオーストリア。この100年の間に、何があったのだろうか。
オーストリア復活の謎をめぐって、私は調べた。しかし、結論から言えば、その答えはまだ見つかっていない。
ひょっとすると、一筋縄ではいかない、複雑な出来事なのかもしれない。
今後、納得のいく回答が得られ次第、報告できればと思っている。
現時点で明らかなこととして、次のことを指摘しておきたい。
それは、「国の勢いには、浮き沈みがある」ということだ。そして、それを予測するのは、極めて難しいということだ。
ドラッカーは、敗戦後の焼け野原の日本を評して、「この国は経済大国になる」と予言したという。そしてそれは的中した。
その一方でドラッカーは、故国オーストリアに対しては、あたかも見限るのような記述をしている。周知のように、その予測は外れた。それほど、一国の盛衰を予測するのは難しいのだ。
最近は、日本の将来をめぐって、悲観的な言及が多い。
少子高齢化に、巨額の財政赤字。そして新興国の台頭による国際的な地位の低下。こうした現実は、悲観論を呼ぶには十分だ。「日本はオワコン」と切り捨てる著名人もいる。
しかし、繰り返すが、確実な予測は難しい。
私たちはつねに、未知の時代へと向かっているのであり、過去の歴史だけでなく、いまの現実すらも、必ずしも未来予測のあてにはならない。
これからの日本や世界が、どうなっていくのか。
予測の困難さを知りつつも、それでもなお、未来について考えていきたい。
矛盾しているようだけれども、予測の難しさを認識せずに、無責任な予測を語る人たちよりは、多少であっても誠実な在り方なのではないかと思っている。