≪この記事の概要≫
新井白石の父の戒め。「クロイツェル・ソナタ」が問題視するもの。負け犬は吠えず。沈黙と踏轍。語り難きを語る責任。一次情報が一層希少に。未だ秘策を得ず。
新井白石(あらい・はくせき)といえば、江戸時代中期の学者である。
その著書「折りたく柴の記」は、自伝の名作として知られている。
序盤では、その生い立ちが語られる。
そこで興味を引くのが、父からの教えだ。
中でも特に印象的なのは、父からの教えの中に、「性の戒め」があるということだ。
簡単に要約すると、こうだ。
・性欲をつつしめ
・色恋沙汰で生じた怨みは、決して解けない
・色欲のない人は、人間関係のトラブルが少ない
ここのところに、私はひどく感心した。
恋愛トラブルがいかに面倒かは、四十を前にした私も多少は分かっているつもりだ。
それを白石は、父親から幼少期のうちに語られていたというのだ。
私は、こうしたことを、父親からはほとんど教わらなかった。
それどころか、先輩や、友人や、そのほかの尊敬すべき男性たちからも、忠告として話題にされることなど極めて稀だった。
実際、みな誰から教わるのだろう?
トルストイに「クロイツェル・ソナタ」という中篇小説がある。
ある男の告白を通して、性問題(特に男の性欲)の深刻さを描いた傑作だ。
その男は、10代の頃から不良グループに加わって放蕩な生活をするが、性的にも堕落する。
そこで、こんな一文がある。
「こんなわけで、わたしがかねてその意見を尊重していたような年上の人たちのだれからも、あれがいけない行いだという言葉なぞ、きかなかったのです」
ーー「クロイツェル・ソナタ」(原卓也訳)
「あれ」というのは、もちろん淫蕩な関係を持つことである。
それを戒めるような教えを、誰からも受けなかったというのだ。
その結果、この人物は、破滅に至る。
このさいりげない一文を、私は無視できなかった。
「だれからもきかなかった」というのは、私と同じだ。
100年以上も前に異国の地で生まれた小説に、これほど共感する一節があろうなどとは、思いも寄らなかった。
新井白石のように、父親から性の戒めを受ける人もいる。
一方で、何も聞かされずに育つ男もいる。
あなたはどちらだろうか?
この記事では「性のトラブル」という言葉が頻出するので、「性禍(せいか)」と略記させていただく。
(私の造語である。)
閑話休題。
ただでさえ、性の問題は語られにくい。
面と向かって語る場合なら、特にそうだ。
それに加えて、ひどいトラブルに見舞われた者は、そうそう語ろうとはしないだろう。
たとえば、以下のような実体験を、当事者から直接聞いたことがあるという人が、どれだけいるのだろうか?
・結婚するつもりもない女性と関係を持ち、妊娠させた。
・浮気がばれ、離婚した。
・女性従業員にセクハラをして、会社から罰を受けた。
・性病をうつされた。さらに、それをパートナーにうつした。
・デリヘルを利用したら、いつの間にか財布を盗まれた。警察にも届けられず、泣き寝入りした。
・満員電車で痴漢行為をしてしまった。
こうした経験をした人は、大多数が口をつぐむことだろう。
打ち明けるとしても、慎重に相手を選ぶ。
誰彼かまわず言いふらしたりはしない。
性禍が語られない理由は、いくつもあるだろう
その一つが、「話題にしたところで、おもしろくもなんともない」ということだ。
大概の場合、聞いた方を不愉快にさせる。
よっぽどのいい機会やタイミングをとらえないと、相手の心に響くどころか、拒絶される。
また、男性の場合、トラブルの当事者といっても、加害者の側であることが多い。
たとえば、妊娠して苦労をするのは、女性の側である。
それを思うと、軽率に口にすることはできない。
結果として、性禍は、ほとんど語られないまま、忘れられていく。
(もっとも、当事者にしてみれば、忘れられることを望んでいるのかもしれないが。)
そして、別の男が、過去の誰かと同じ轍を踏む。
知ってさえいれば避けられた破滅を、自ら招くのだ。
インターネットが普及して、あらゆる情報が手に入るようになった。
とは言え、性のトラブルの情報源は、依然として乏しい。
匿名の書き込みはある。
それだと、どこまで事実でどこから改変が加えられているか、確かめることはできない。
アクセス数を稼ぐことが目的なら、スキャンダラスな演出が施されていることだろう。
要するに、信頼できる確かな情報は、きわめて稀なのだ。
私は幸いにも、性禍による破滅には至らずに生きてこられた。
もっとも、飽くまで「破滅には至らなかった」というだけで、小さな失敗はいくつかある。
また、今までなかったというだけで、これからの人生で何があるかは分からない。
そうした話題を、私もまた、自分の息子や若い世代に伝える気持ちにはなれない。
恥ずかしいし、相手も別に聞きたくないだろうことが分かるからだ。
しかし、そうも言っていられないのかもしれない。
それを語ることは、ある程度の年齢になれば、責任ある行為なのではないか。
なぜならそれは、信頼できる確かな情報であり、貴重な価値ある情報だからである。
それが、前途ある若者を破滅から救うとすれば、なおさらだ。
若い人の中には、「クロイツェル・ソナタ」で描かれたように、誰からも性禍の恐ろしさを教わらなかった、という人もいるだろう。
敢えてそれを語ることは、情報過多の時代にあって、ますます重要になりつつあるのではないだろうか。
何年か前だが、男性がいかにアダルト情報に身を浸しているかという記事があった。
ポルノの影響に関する研究、ポルノを見たことがない男性が見つからず頓挫するも別の結果が得られる(2009年12月3日)
ポルノサイトを一度も見たことがない男など、いないのである。
この記事をはじめて読んだ時、私はだた苦笑した。
しかし、それから息子や甥ができて、その将来を思うようになると、笑ってばかりもいられなくなった。
真実を語ることは、ますます重要になっている。
課題は、その先にある。
すなわち、どう語るかだ。
これが難題だ。
いきなり生々しい話をして、忌避されては元も子もない。
関係者の名誉もある。
オブラートに包んだり、多少は脚色したりする必要があるだろう。
その結果、情報がどの程度変質するかわからない。
あまり加工しすぎても、真実味を失ってしまう。
語り方を習得しなければならない。
そうでなければ、実例という希少な資源を、ただドブに捨てるも同然になる。
(2019年11月14日)