僕が教員を始めた頃のバイブルをふたつ選べと言われたら、
イリイチの脱学校化社会、
フレイレの被抑圧者の教育、
を選ぶ。
話せば長くなる。
また後者は今回述べたい側面とまったく異なる側面のバイブルだ。
ここでは、前者から得たインスピレーションを今の時点で結論だけ簡単に言うと、
「学びたいことがある人が、
教えられることのある人とマッチングして、
トークンを払えば、学校は、少なくとも基礎段階ではいらない。」
しかも、イリイチがこの本を書いた頃とは、テクノロジーの発達がまるで違う。
たとえば僕の中国語は、youtubeでとある講座シリーズを全回見る、文法書で文法事項を確認する、語学交換の相手や、格安ネット講座の相手と会話する。
以上をしただけだ。
が、そこいらの「第二外国語は中国語でした」というチャラチャラした学生に負けたことなどないと思う。
また特別支援学校教諭の免許をとるため、放送大学の学習センターに通っていたことがあるが、
学生証さえあれば、どのDVDでも自由に見られた。
ほとんどの学問分野にわたるし、
講義は一応、日本を代表する講師陣。
単位さえいらないなら、一課目だけ登録しておけば、何の勉強でもできる。
さらに僕が通っていたときより、ネット配信が盛んになったので、学習センターに行かなくも自宅のパソコンで見られるものが、爆発的に増えている。
(ちなみに肝心の特別支援教育の講座についていえば、現場で研鑽を積んだり、世界の動向を見ていたりする現場教員から見ると、文科省の見解を講義するだけの非常にレベルの低いものと言えた。)
ただ、この「ネットでなんでも学べる論」を言うと、「人間関係を学べないじゃなかいか」という人が出てくる。
具体的には、ひきこもりを加速する、人に会いたい揉まれたい人もいるのに疎外されてしまう、特に社会関係から疎外されがちな障碍者は学校などでの出会いの機会を奪われる等々をいう人が必ず登場する。
(一方で、それのどこが悪い?という人も登場するので、結局、向き不向きがあるということなのだが。)
僕もネット学習論をはじめとするマッチング学習論だけでは、人間関係を学べないということは確かに否定できない側面があると思う。
それどころか、学校の意義はつまるところ、次のようなところにあるとさえ、思っている。
じゃあ、旅行に行くときや、劇をつくるときだけ、自宅パソコンを離れて、集まればいいのか。
いや、日常を共に過ごしてないとそれにもなかなか難しいものがあり、そういう付け刃で成立する世界でもない。
そこでやはり学校の意義を認めるとき、様々なオルタナティブスクール論の展開となる。
だけど、僕はもうマジ、めんどくさくなってきた。
Mayuさんらが、まじめに考えて書き続けているから、若い人にまかせて、自由に余生を送りたい。(・_・;)