(9)意図して行う瞑想には効果がなかったのですか?
呼吸を見つめたり、マントラに集中することが、深いリラクゼーションに繋がることはありました。しかし、それ以上の宇宙とひとつになるような体験はなかなか訪れませんでした。
私は自分自身の存在価値を感じることができず、様々な文学や哲学書を読みふけっては探求している高校生でした。「考えすぎ」というアドバイスはたびたびされました。ある意味では当たっていたかもしれません。
そのうち私の身体には尿意頻数(尿意が近い)などのいくつもの神経症状が現れ始めました。神経症状は人により異なると思いますが、社会のシステムにすんなりと適合できないでいるときには誰にでも何らかの形で生じる可能性があるのではないでしょうか。
私はあるとき、尿の検査の結果を聞くために大きな病院を訪れました。医師からは「尿に異常はない。神経性のものではないか。ここでできることはもうないので、精神科を訪ねてみてはどうか」と言いました。
私は途方に暮れて帰途につきました。道すがら、大きな書店に立ち寄りました。文学や西洋哲学の本のコーナーと共に、東洋思想やヨーガのコーナーに立ち寄るのは、私の習慣になっていました。
すっかり途方に暮れていたその日、そこで私に大きな出会いが起こったのです。
(10)その大きな出会いについて教えてください。
意図して行う瞑想で思ったような効果が得られず、逆に神経性の尿意頻数を患って私は途方に暮れていました。
ところがその日私は書店で偶然一冊の本を手にしました。日本で最初に出版されたバグワン・シュリ・ラジニーシ(インドの瞑想の師匠=グル)の講話『存在の詩』でした。
<川>はそれ自身でひとりでに流れている。
あらゆるものが必ず究極の大洋に至る。
あなたはただどんな妨害もしないことだ。
<川>を押し進めたりすることはない
ただそれといっしょに行けばいいのだ
バグワンの言葉はどのページを開いても、そのときの私の魂の深奥にしみいりました。
16歳の私は立ち読みをしながら、書店ではらはらと泣いてしまいました。体中から余計な力が全部抜け、自分自身が透明になったように感じました。
きらきらとさざなみの光る大河が、大いなる海に向かってゆったりと流れています。私は自分自身をそのまぶしい光の中に見失っていました。
(11)その後、あなたはどのように瞑想してきたのですか?
瞑想とは要するに、今ここに目覚め、気づいていることです。それ以外に特に何かを付け加えたりする必要はありません。
おもしろい話を聞いたことがあります。ある人が瞑想の師匠に尋ねました。
「師匠。瞑想中にタバコを吸ってもいいですか」
師匠は答えました。
「なんてことを言うんだ。タバコなんか吸わず瞑想に集中しなさい」
別の日、ある人が同じ師匠に尋ねました。
「師匠。タバコを吸っているとき瞑想してもいいですか」
師匠は答えました。
「もちろんだ。ありとあらゆる瞬間に、今ここに目覚め、気づいていなさい。それが瞑想だ。」(笑)
何か特別なことをするのではありません。ただいつも今ここで起こっていることのすべてに目覚め気づいていること。それが瞑想です。
しかし、その最も単純なことこそ、最も難しいことと言えます。
なぜなら心を鎮め無心になろうとすればするほど、雑念が湧いてかえって落ち着かなくなるのが人間の心の性質だからです。
それゆえに古来、瞑想に入りやすくするための様々な方法が工夫されてきました。結果、瞑想には実に多種多様な「やり方」があります。
私はその様々な瞑想法を実践してきました。
(12)具体的にはどのような瞑想法ですか?
私が好んでやってきた瞑想は、初めから静かに座り、自分を見つめるというタイプのものではありませんでした。
そうしようとしても、ついつい雑念が湧いて、無心になることができず、ちっぽけな自分の愚かな思考の中にすぐに舞い戻ってしまうのは、何度も経験してきたことだからです。
私が師事していたグル(瞑想の師匠)のひとり、バグワン・シュリ・ラジニーシ(晩年はOSHOと名告った)は、静かに自分を見つめる段階の前に、激しい呼吸や、叫び、ダンスなどを行う瞑想法を薦めていました。
そのような激しい活動は、心身にカタルシスと呼ばれるような浄化をもたらします。そして瞑想に入りやすい心身の状態が整えられるのです。
何度か述べてきたように、本当に瞑想が起こるときは、それはhappenするのであって、瞑想はけっしてdoすることのできないものです。することができるのは、瞑想が起こりやすい状況を作り出すことです。
眠ることは、「すること」ができるものでしょうか? 眠りには「落ちる」のであって、眠るという行為をするということは不可能です。
そのため、不眠症という症状に陥ると、激しいジレンマに苛まれます。眠ろうとすればするほど目が冴えてしまうというのもよくあることです。同じように瞑想においても、無心になろうとすればするほど、雑念が湧いてしまいます。
しかし、眠るためには、少なくとも、充分に活動したあとで、布団に入り、目を閉じることが助けになります。瞑想自体は、「起こる」ものだとしても、それが起こりやすい状況を整えることは「すること」ができます。
私にとってそれは激しい呼吸や叫び、ダンスなどでカタルシスを行い、それからゆったりと座って自分自身を見つめるというやり方でした。
しかし、あるとき、そのような瞑想法を遙かに超える特別な瞑想法に私は出会ったのです!
(つづく)
この後の主な展開
・シッダメディテーションによるクンダリニー上昇やチャクラの自然開花などの体験
・OSHOのアシュラムにおける瞑想やエネルギーヒーリングの体験
・日常生活における偶発的な瞑想状態の様々な体験(恋愛、カヌー、カー、音楽、ダンス、絵画、文学、シャーマニズム、原生自然、ブロッケン現象・・・・)
・親鸞の念仏の本質は二種深信と呼ばれる深い瞑想体験でもあることのわかりやすい解説
・臨死体験において解脱を垣間見た体験(脳の活動停止状態こそ、解脱の境地)
・臨死体験から生還してのその後の世界観と今